集成館事業

薩摩切子と島津斉彬/wikipediaより引用

幕末・維新

薩摩切子で芋焼酎を楽しめるのは斉彬が遺した集成館事業のお陰です

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斉彬の「集成館事業」

ただし、斉彬は無駄金ばかりを使ったわけではありません。

ここでその事業をおさらいしてみましょう。

・反射炉の建設および鉄製大砲の作成
→青銅大砲ではなく、鉄製を作るために反射炉が必要

・溶鉱炉の導入

・造船
→ただし、コスト面を考慮し輸入に方針転換

・海外向け輸入品の製造

・紡績・ガラス・製薬・印刷術・出版・電信・写真・食品等、西洋技術の導入

ご覧の通り、軍事的な技術だけではなく、新技術による生活の底上げをも目指していたわけです。

こうした事業は「集成館事業」と称されています。

ただし、こうした事業に関しては斉彬一人だけの考えではなく、斉興・調所や久光といった藩の実力者も、そうした気持ちはありました。方向性は違いましたが。

磯地区にあった集成館事業(1872年頃)/wikipediaより引用

こうした集成館事業は現在まで残っている特産品も生み出します。

それが冒頭に挙げた薩摩切子と芋焼酎。

それぞれもう少し詳しく見て参りましょう。

 


薩摩切子を特産品にしよう

薩摩藩はかつて「日本一の貧乏殿様」とすら呼ばれていました。

確かに石高は72万石あります。

しかしこれにはトリックがあり、籾高で計算。他の藩と同じ米高で計算すると36万石程度にしかなりません。

つまり半分です。蔵入れ高で計算すると13万石まで下がります。

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というのも薩摩は、火山灰の影響のせいで米作りにあまり適していませんでした。

食料生産が貧弱であるにも関わらず、島津家の武士構成比は全国一。貧乏になる条件は揃っていたのです。

にもかかわらず、格式だけは大藩として存続するから藩主にとってはアタマの痛いこと。

そんな薩摩藩の財政的な生命線は、貿易でした。

しかしこれも鎖国政策により大打撃を受けてしまい、薩摩藩は抜け道を探します。

いわゆる「密貿易」です。

美しい薩摩焼は人気の特産品。

斉彬は、その特産品のラインナップとして、ガラスに目を付けます。

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