集成館事業

薩摩切子と島津斉彬/wikipediaより引用

幕末・維新

薩摩切子で芋焼酎を楽しめるのは斉彬が遺した集成館事業のお陰です

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江戸から技術者を招聘

薩摩にガラスが導入されたのは、斉興の代でした。

製薬の研究のため、酸性の液体を入れても割れないガラス容器が必要とされたのです。

斉興は江戸から技術者を招聘し、ガラス作りを始めました。

このガラスを、もっと発展させて商品にできないかと考えたのが、斉彬。父子の性格の差が顕れているのかもしれませんね。

斉彬が目指したのは、ヨーロッパのカットガラス、ベネチアグラス、清の乾隆ガラスのような、絢爛豪華なものでした。

そういう派手な嗜好が、父の斉興にとっては「余計な華美なものを好む」と映ったのではないでしょうか。

斉彬の思考には、貿易こそ国を豊かにするという薩摩藩主らしい伝統的な思考と、西洋の技術を取り入れる先進性が入り混じっています。斉興には理解できない部分だったのでしょう。

もちろん斉彬は、ただ美しいから薩摩切子に力を入れたわけではありません。

新たな輸出品として人気が出るとみこんだからこそ、奨励しました。

その甲斐あって、薩摩切子は見る者をうっとりとさせる素晴らしいものとして完成されました。

「ボカシ」と呼ばれる技法は、「薩摩切子」独自のもの。ちなみに当時は「薩摩びーどろ」と呼ばれていました。

斉彬は薩摩切子を気に入り、自慢の品としていたようです。

贈答品として用い、篤姫の嫁入り道具にも持たせています。

この薩摩切子。幕末の動乱により途絶えたものの、1985年に復元されました。

現在も、その美しい輝きを見せています。

 

芋焼酎

「薩摩の芋侍どもめ!」とは、幕末の薩摩藩士に対する定番の悪口です。

「サツマイモばっかり食って芋焼酎飲んでいるやつら」ということですね。

実はこの芋焼酎も、歴史はそこまで古くありません。

サツマイモは、名前からおわかりの通り、火山灰の多い薩摩の土壌に適した主食であり、救世主のような食べ物でした。

芋焼酎もそのころから飲まれていそうな印象を受けますが、実はそうではありません。焼酎はあくまで米から作るものだったのです。

斉彬の集成館事業の一環として、雷管銃の開発がありました。

この銃を作るためには、雷汞(ライコウ)が必要。雷汞を作るためには、水銀を硝酸に溶かし、エチルアルコールと反応させねばなりません。

はじめは米焼酎を使っていたものの、そうなると米を大量に消費してしまいます。

ここで斉彬は、米ではなく芋で焼酎を造るよう命じ、さらにこう考えたのです。

「芋焼酎をここだけで終わらせるのは惜しいな。いっそ薩摩の特産品にしてはどうだろう」

飲料用の芋焼酎を作るため、品質改良を行ったのです。

庶民が自家製では作っていたけど、売り物になるほど味をよくしたのが斉彬。

以来、芋焼酎は薩摩の特産品となるのです。

独特の香りが特徴で、好き嫌いが分かれながら、一度ハマれば病み付きになる芋焼酎。

その特産品が、実はこんなにも深く、幕末動乱の歴史と絡んでいるわけですね。

鹿児島が誇る芋焼酎の産みの親が斉彬だと知れば、ますます彼に惚れ込んでしまう人もいるのではないでしょうか。

集成館事業とは、幕末の動乱を乗り切る力となっただけではなく、現在に至るまで鹿児島を代表する特産品として残ります。

斉彬を思いつつ、薩摩切子のグラスで芋焼酎を飲む――そんな風に歴史を味わのも、一興かもしれません。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『増補改訂版 かごしま検定―鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック―』(→amazon
『鹿児島県の歴史 (県史)』(→amazon

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