山崎の戦い

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)

明智家

明智軍vs羽柴軍「山崎の戦い」で秀吉が勝てた理由~光秀は何処へ?

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細川家はいち武将として強力なだけでなく、名門一族でもあり、周辺勢力への影響力も強い。

しかも、ただ無視されるだけにとどまらず、彼らは今後の対決が予想される秀吉に急接近するのです。

このことを知った光秀は、まさしく絶句したことでしょう…。

さらに、光秀の与力大名として勢力を拡大していた筒井順慶も、出陣要請を黙殺します。

光秀は、順慶を出迎えるため、わざわざ洞が峠(現在の大阪府枚方市付近)まで出向いたとされますが、そこに順慶の姿はありませんでした。

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親戚で友人の細川藤孝と、自身の配下に等しかった筒井順慶。

この両家は、光秀も【味方である】と算段をつけていたでしょう。

戦国の世とはいえ、そんな彼らにアッサリと見捨てられた彼の心情を考えると、寒々しくて、思わず同情したくなるほどです。

 

秀吉の神速により、開戦前から旗色は最悪に

細川と筒井の二枚看板を失った――調略失敗で泣きっ面の光秀に飛んできたのは「ハチ」ならぬ「サル」でした。

備中高松城(現在の岡山県岡山市)を水攻めで包囲していた羽柴秀吉は、変の知らせを受けると毛利氏と和議を結んでただちに撤退。

6月5~6日に大軍を引き連れて中国路を姫路へ向かいました。

この間ほとんど休息をとることはなかったと考えられ、7日には姫路に到着しています。

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秀吉は同時に、畿内エリアへの撹乱工作も忘れません。

光秀に味方をするかもしれない中川清秀に対し、

【信長・信忠父子は無事に近江へ逃れた】

という偽の情報を流し、中川だけでなく他の近畿の武将が明智サイドにつくことを阻止しようとしておりました。

偽情報を流しつつ、京都への道を急ぐ秀吉。

その後、「織田信孝の身が危ない」という情報を得た秀吉は、即座に姫路を出発して尼崎へ向かいます。

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そして11日に同地で摂津の武将らと合流すると、12日には富田(現在の大阪府高槻市)に進み、ここで諸勢を集結して合戦の軍議を開きました。

結果、以下の3軍団&3方向に分かれて進軍することを決定。

・山手から羽柴秀長黒田官兵衛たち

・中筋から高山右近や中川清秀たち

・川手から池田恒興や加藤光泰たち

光秀のいる京へと向かいます。

このあたりの判断力や行動力、洞察力を考えると、やはり羽柴秀吉という男がタダ者ではないことがよく理解できるでしょう。

晩年や創作でのイメージからどうしても低く評価されがちな秀吉ですが、こと山崎の戦いをめぐってはこれ以上ないほど恐ろしい才覚を発揮しています。

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ちなみに、光秀方は10日の夜までに羽柴軍襲来の報を入手していたようで、11日からは洞ヶ峠(大阪府枚方市)を撤収して、急ぎ勝竜寺城(京都府長岡京市)付近で迎撃する体制を整えております。

同地にて軍議を開いたであろう光秀方は、羽柴軍の思惑と同様に合戦の舞台を山崎と定めました。

軍事・交通上の要衝であり、彼らが目をつけたのも当然と考えられています。

もっとも、合戦開始前の12日には、すでに両軍の足軽による小競り合いがあったようで、その結果として開戦時に山崎は秀吉方が確保していたようです。

 

明智、秀吉の各陣容は?

いよいよ13日は戦の本番、両軍が山崎の地で相まみえることになりました。

軍勢を整理しておきますと、明智軍は斎藤利三を筆頭とした計13,000ほど。

陣容は以下の通りです。

【明智軍】

◆山崎の先手勢5000

◆松田政近を筆頭とした山手の先手勢2000

◆右備2000

◆左備2000

◆光秀旗本が5000

◆計13,000

フロイスの分析によると、光秀の軍勢は8,000~10,000となっております。

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一方の羽柴軍は計40,000ほど。

以下の通りの顔ぶれになっています。

【羽柴軍】

◆一番 高山右近4000

◆二番 中川清秀2500

◆三番 池田恒興5000

◆四番 丹羽長秀3000

◆五番 織田信孝4000

◆秀吉本隊20000

◆計40,000

この時点で両軍の差が絶対的であることは明らかですね。

しかも、秀吉軍は士気も高い。

長距離を駆け抜けた疲労はあるにせよ、光秀が頼ろうとした高山右近や中川清秀を味方に引き入れ、かつ信長の三男・織田信孝もおりました。

織田信孝は、四国攻めを予定していたところで本能寺の変が起き、単独では光秀に対抗できず、中国大返しからの秀吉に相乗りするようなカタチです。

本音を言えば柴田勝家と手を組みたかったのでしょうが、この場面では致し方ないところかもしれません。

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光秀の失敗は、細川や筒井といった有力武将を味方にできなかったことだけではありませんでした。

秀吉方には【信長の仇を討つ】という大義名分が存在。

一方、光秀側は、そっくりそのまま【主君殺し】という負い目となったのです。

 

天王山を制する者が山崎の戦いを制する?

開戦前から不利であったことは、光秀当人も重々承知していたでしょう。

しかし、戦はフタを開けるまでわからないもの。

一般的に両軍が本格的にぶつかったとされる13日以前から小競り合いは始まっておりました。

そして……。

――山崎の戦い始まる。

光秀が設置した本陣は、明智方の勝龍寺城から南へわずか1.5kmの距離。

さらに南へ数百メートル進んだところが、今日こんにち【山崎古戦場跡】として記されるポイントであり、当時の合戦中心地付近だと目されている。

両軍が注目したのは、そこからさらに南西約3~4kmの重要地点である。

このヤマを制する者が山崎の戦いを制す。

現代でもそう知られる【天王山】である。

※左の拠点から天王山(黄)・山崎古戦場跡(紫)・光秀本陣(赤)・勝竜寺城(赤)

首尾よく天王山を押さえた秀吉軍は、自らは山麓さらに南方の平野(一説には宝積寺)に本陣を構え、静かに明智軍の動向を見守っていた。

秀吉が優勢であることは間違いない。

しかし、その主力部隊は、備中高松城から約230kmもの行程を進軍しており、溜まった疲労は少しでも癒やすに限る。

そもそも明智に対して3~4倍もの大軍であり、自ら仕掛ける手はない。

逆に言えば、そこが光秀に残された僅かな勝機だったのだろう。

不利な立場におかれた明智方は先に動いた。

動かずにいた羽柴勢に挑発を繰り返し、その誘いに応じたのが高山右近。

後にフロイスに対して「私が先陣を切って突撃した!」と語ったといい、戦はにわかに加熱し始め、13日の夕方頃に両軍が全力で激突した。

秀吉軍で戦闘の中心になったのは摂津衆であった。

右翼の池田勢が速やかに進出し、中でも加藤光泰が活躍すると、中央の中川勢や高山勢および左翼の山の手側でも、終始、秀吉軍が有利に戦を進める。

少ないながら明智勢も奮戦を見せた。

しかし、急ごしらえの軍勢であったことや、無理やり光秀に従わされていた近江衆などの戦意は低く、同日中には完全に勝敗が決する。

秀吉方の圧勝、明智方の完敗だった――。

※補足:一般的に天王山の確保が勝因だとされておりますが、良質な史料に記述がないことから、秀吉による「喧伝」の一種だという見方もあります

かくして秀吉方に壊滅的打撃を与えられ、敗走を始めた明智軍。

光秀は野戦を諦め一旦は勝竜寺城に入ったものの、城を守ることは到底不可能なことを知り、夜陰に乗じて坂本城へと逃れようと画策します。

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