明智光安

絵・小久ヒロ

明智家

史実の明智光安は城を枕に討死?光秀の叔父とされる謎多き武将の生涯

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明智の再興を光秀に託し、討ち果てる

光安を中心にした明智勢は、明智城に籠って義龍軍を迎え撃ちました。

兵力差は圧倒的でしたが、光安の奮戦と堅固な城の造りに助けられ、襲撃初日は乗り切ったといいます。

そしてその夜には「最後の晩餐」として酒宴を開き、死線を越える覚悟を決めたのでしょう。

翌日には籠城から一転して城外へ出て、皆が思い思いに奮戦したと伝わります。

しかし、勝ち目がないことを悟っていた光安は、早々に城へ引き返し、自害の決意を固めました。

以上が、光安の戦ぶりと死を覚悟するまでの動向です。

明智城の戦い
明智城の戦い~なぜ光秀や光安の居城は義龍に攻められたのか?

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こうして城へ引き返した光安。

彼と光秀のドラマはこの後に待っていました。

自分も一族と運命を共にしようとした光秀に対し、光安はこう語りかけます。

「私はこれから自害します。

殿は、自分も果てたいとおっしゃいますが、ここでいったん明智氏は断絶することになるでしょう。

しかし、祖父の遺言もあり、また殿の志もここで終わるようなものではないのですから、落ち延びて明智の家名を再び立ててはくださいませんか。

また、私たちの子供(光安の子・秀満、光久の子・光忠を指すか)を召し連れて、末々取り立ててくださいますよう、お頼み申し上げます!」

光秀は彼の言葉に従い、城を脱出。

西美濃に落ちて諸国を放浪したのち、朝倉義景に仕えるようになったと記されています。

朝倉義景
朝倉義景は二度も信長を包囲しながらなぜ逆に滅ぼされてしまったのか

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その後の活躍については、大河ドラマ『麒麟がくる』でもお馴染みですので、皆さんもよくご存じでしょう。

光安は、城に火を放って自害しました。

 

果たして光安は実在したのか?

上記で記した光安の生涯については、すべて後世に編纂された二次史料に基づく内容です。

そのため、光秀の父である光綱の記事でも述べましたように、光秀の出自や青年期の記述は信頼できず、光安に関しても実在から疑うぐらいがちょうど良いでしょう。

実際、明智城が滅ぶ際のエピソードは「史実の出来事としては出来が良すぎる」という印象を抱きます。

道三を裏切れない理由が「血縁と友誼」である点や、戦中の様子が事細かに記されすぎている点、さらには「御家の再興」を託された光秀がそれを叶える点など、あまりにも「シナリオ」として完成されてしまっているのです。

だからこそ、直感で史実ではなさそうだと感じますし、物語中に出てくる価値観に、江戸時代の思想が見え隠れしているような気がするのです。

ただし「シナリオ」として出来がいいので、創作映えするのは間違いないでしょう。

『麒麟がくる』における光安の最期もまた華々しいものでした。

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文:とーじん

【参考文献】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon
小和田哲男『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉 (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon
洋泉社編集部 (編集)『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀(洋泉社)』(→amazon
「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究)

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