明智左馬助(明智秀満)

歌川豊宣の『明智左馬助の湖水渡り』/wikipediaより引用

明智家

光秀の娘を娶り城代を任された明智左馬助(秀満)最期は光秀の妻子を殺して自害?

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「明智左之助の湖水渡り」は真実か否か

打出浜で堀軍に敗れ、絶体絶命の危機を迎えた左馬助。

単騎で戦場を離脱し、坂本城への帰還を果たそうと考えました。

しかし、陸地は四方を敵に囲まれ、突破が難しい状況であることは明白です。

そこで左馬助(秀満)は、打出浜に近接していた琵琶湖に馬を引き入れ、湖を馬に泳がせる形で戦場を離脱したという伝説があるのです。

明智左馬助の湖水渡り】

と呼称され、現代でも人気小説のモチーフにされるほどの知名度を獲得しております。

TOPに掲載された歌川豊宣(うたがわ とよのぶ)の錦絵もそうですね。

そうは言っても「馬で琵琶湖を渡る」のは非現実的な見方。

打出浜から坂本城のある対岸までは距離にして数キロ以上あり、馬上で湖を渡るなんて芸当できるワケがありません。

この伝説は秀吉の功績をまとめた『川角太閤記』に収録されていますが、近年の研究においては「坂本城まで逃げ延びたのは事実だが、逃走手段は馬ではなく舟であろう」と指摘されており、それがごく自然な見立てかと思います。

もっとも、今回の伝説で疑わしいのは「左馬助(秀満)が跨ったまま馬に長距離を泳がせた」という点であり、単純に「馬が泳ぐだけ」なら問題ありません。

我々が考えているよりも馬は泳ぎが上手であり、現代競馬においても、故障明けの競争馬やリラックスを目的としての「プール調教」が存在するほど(JRA)。

もしかしたら主の左馬助が舟に乗った後、単独で琵琶湖を泳ぐ愛馬の姿を堀軍の兵士らに見間違えられたのかもしれません。

だとしたら、それはそれで面白い話であります。

 

光秀の妻子を殺して自害した

坂本城へとたどり着いた左馬助(秀満)は、敗色が色濃いことを悟り、事後処理に奔走しました。

まず、敵に処刑されることが確実であった光秀の妻子(明智煕子)を自らの手で絶命させ、追撃してきた堀秀政に対し、坂本城内に存在した文化財を譲り渡しました。

※明智煕子の死については、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったという説もあります(西教寺『過去帳』)

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そこで文化財と目録を確認した秀政が、左馬助の愛用していた脇差が存在しないことに気づきます。すると……。

疑問を呈する堀秀政に対して、明智左馬助(明智秀満)はこう伝えました。

「この脇差は光秀がかつて仕えていた朝倉家に伝わるものであり、彼が命に代えてでもと秘蔵していたものだ。そのため私が死後光秀に渡したいと思う」

そして城に火を放って自害するのです。

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と、その前にもう一つ、入江長兵衛という若武者との間にも次のような逸話が残されています。

長兵衛は、一番槍の功名を挙げようと坂本城に乗り込み左馬助の前に現れました。

もともと長兵衛とは親交があったとされる左馬助(秀満)。

功を急ぐ彼にこう語りかけます。

「私も武将として、時には我身を犠牲にしてでも武名を挙げようと腐心してきた」

「はい……」

「ところが、見ての通り今はこのような立場だ。たとえここで功名を挙げたとしても、結局は私のようになってしまうかもしれない。貴殿も武士を辞め、生き死にの日常とは離れた一生を送ってみてはどうか」

そして餞別として黄金を与えると、長兵衛は後世、その資金をもとに商人として大成したというものです。

堀秀政や長兵衛との逸話はあくまで俗説であり、史実として信頼することは難しいでしょう。

ただ、志半ばで斃れた左馬助の人柄や想いが伝わってくるのではないでしょうか。

かくして全ての事後処理を終えた左馬助(秀満)は、坂本城に火を放ち自害しました。

享年は史料によって幅が大きく断定はできませんが、おおよそ20代後半~40代前半と推定されています。

なお、左馬助の父とされる人物も丹羽国の横山で捕らえられ、京都の粟田口(現在の京都市東山区)あたりで磔にされたと記録されています。

明智左馬助は、記録上わずか5年足らずの期間しか具体的な行動が確認できません。

生涯の多くが今なお謎に包まれています。

しかし、ミステリアスな存在感と悲劇的な末路がかえって注目され、これからも光秀の右腕として語り継がれていくのではないでしょうか。

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