明智左馬助(明智秀満)

歌川豊宣の『明智左馬助の湖水渡り』/wikipediaより引用

明智家

光秀の娘を娶り城代を任された明智左馬助(秀満)最期は光秀の妻子を殺して自害?

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左馬助(秀満)の出自は?

明智左馬助(明智秀満)の出自については、近年、

「三宅氏説」
「明智氏説」
「遠山氏説」

の3説が主に提唱されていて、この部分はある程度研究が進んでいます。

一つずつ見て参りましょう。

【三宅氏説】

光秀の家臣として明智家に仕えていた三宅氏一族の出身であるという説です。

根拠としては、秀満が「三宅弥平次」と名乗っていたことが挙げられます。

三宅氏の出でありながら明智姓を名乗っていた理由は、光秀の娘を娶り、娘婿になったという事実から説明が可能でしょう。

史料不足のため確定こそ出来ないものの、逆に三宅氏説を否定できる根拠もなく、現状では最有力の説といえます。

【明智氏説】

「明智氏説」については、秀満が光秀の叔父である明智光安の子であり、光秀とは従兄弟の関係にあったというものです。

同説の根拠としては、明智家の事績を伝える『明智軍記』や、諸家の系図を全てまとめた『系図纂要』という史料で上記の内容が確認できることでしょう。

しかし、『明智軍記』『系図纂要』はいずれも江戸時代中期以降に作成された書物であり、内容については矛盾も多く含んでいます。

そのため先行研究では「明智氏出身説は誤りである」と断言されており、俗説の域を出ていません。

【遠山氏説】

最後に「遠山氏説」について。

こちらは明治期に幕末志士として活躍した阿部直輔が校正した『恵那叢書』という書物で提唱された説です。

秀満の父とされる光安が美濃明智城主の遠山景行と同一人物であり、そこから発展させて景行の子が明智光春と同一人物で、さらに光春本人が秀満であるという内容です。

ただし、この説はかなりの「こじつけ」であり、秀満の父を光安と断定してしまっている点にも問題があります。

さらに、明智光春と秀満が別人であることが立証されており、その前提も成り立ちません。

したがって、学術書においてはあまり顧みられることのない信ぴょう性の低い説となっています。

 

『明智軍記』の前半生を家系図でスッキリ

明智左馬助(明智秀満)の前半生については『明智軍記』に記載があります。

この書物は矛盾が多く、あくまで俗説だと踏まえた上で振り返らせていただきます。

同軍記によると、秀満は前半生を美濃にある明智城で過ごしました。

そこは長山城とも呼ばれて現在の岐阜県可児市にあり、秀満の父とされていた明智光安が城主。光安は、明智光秀の叔父にあたります。

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光秀の父とされる明智光綱が光安の兄。

つまり秀満と光秀の間柄は従兄弟になりますね。大河ドラマでの帰蝶も含めてまとめますと以下のような系図になります。

しかし、彼らの美濃での生活は、突如として終わりを告げました。

弘治2年(1556年)、斎藤道三斎藤義龍による争いが勃発。

長良川の戦いで道三が敗死すると、その味方をしたということで明智家も義龍に攻められるのです。

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結果、明智城は落城。

光安は自害し、秀満は光秀らと共に城を出て浪人になりますした。

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その後、光秀が信長に仕えるまでの期間についての記載はありません。

あくまで推測ですが、光秀同様、越前の朝倉氏を頼るなどして、やがて室町幕府15代将軍・足利義昭に仕えたと考えることも可能です。

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何度も申し上げますように、この前半生の記載はかなり危ういもので、あくまでフィクションとして捉えるべきでしょう。

結果的に当たっているかもしれませんが、それは別の信頼性ある史料が出てからの話。

他ならぬ明智光秀自身の記録すらほとんど残されておらず、すべては闇の中です。

しかし、物語を作る上では、そのことが良い方向へ作用する可能性もあります。

大河ドラマ『麒麟がくる』ばかりでなく、今後も数多の作品でどう描かれるか。

その度に、一戦国ファンとして心が揺さぶられるのが楽しみでなりません。

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文:とーじん

【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名事典』(→amazon
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』(→amazon
和田裕弘『織田信長の家臣団-派閥と人間関係』(→amazon

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