最初はラブラブ蜜月の仲だったのに、すれ違いから罵り合い、そして殺し合いにまで発展してしまう――。
戦国時代の織田信長と足利義昭は、まさにそんな関係だったと言えるでしょう。
織田軍の助力で上洛した義昭は将軍に就任。
本来の主従関係を考えれば、義昭が上の立場から命令を出したいところですが、いつしか「信長フザけんな」となり、その中でも決定的になったと思われるトラブルがあります。
殿中御掟の読み方は「でんちゅうおんおきて」と読み、十七箇条意見書は文字通り「17個のクレーム」で、ちょうど大河ドラマ『麒麟がくる』でも取り上げられてましたね。
ただ、具体的に一つ一つは記されていなかったので、本稿ではそのすべてを見てまいりたいと思います。
前後関係を踏まえながら進めていきましょう!
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兄の義輝を殺されアッチコッチを流浪していた
兄である十三代将軍・足利義輝が三好一派に殺されてから、三年間あっちこっちを流浪していた足利義昭。
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最終的に(細川藤孝ら近親のおかげで)身を寄せたのが、織田家でした。
信長は、世間のイメージに反して将軍家や皇室・朝廷などを大切にしていましたので、義昭自体を保護することは問題なかったでしょう。
そして信長とその妹婿・浅井長政らの協力によって、義昭は京都に戻ってくることができました。
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義昭だけならともかく、今をときめく織田軍が背後にいては、三好家に対抗手段はありません。
京都から退き、彼らが後釜に据えた十四代将軍の足利義栄(よしひで)は病死。
義昭が将軍の座に就くための障害は全て取り除かれました。
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「室町殿御父」と呼ぶほど信長を慕っていた
正当性のある将軍の存在は、諸国の大名からも歓迎されます。
島津家や毛利家からお祝いが届いたりして、義昭もヤル気満々。
信長が帰った隙を突いて、一度三好家からケチ(物理)がついたこともありましたが、織田軍が二条城を整備して義昭の安全を保証すると、それも落ち着きました。
何から何まで世話を焼いてくれた信長に、義昭はこの時点では絶大な信頼と感謝を寄せていました。
それは信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」という称号を与えたことにも現れています。
手紙では略して「御父」と書いていますね。
数歳しか変わらないのに大袈裟な気もしますが、これは他の幕閣と相談して決めた称号だったりします。誰かもっとツッコめなかったん?
まあ、この時点で信長の長子・織田信忠は既に元服が視野に入る年齢になっていましたし、義昭はまだ人の親になる前&自分の父親との思い出もあまりないですから、信長のどこかに「父性」を感じたのかもしれません。
そういうことにしておきましょう。
悪いのは義昭かなぁ……っていう「十七条の意見書」
義昭は信長に対する感謝をさらに表すべく、副将軍の地位や管領への就任を勧めました。
しかし、信長は「ワシにそんな大それた役目はもったいないので、弾正忠の官位だけお受け取りします」(意訳)と断ります。
そして、二人の仲が表裏なく良かったのもこの辺りこまで。
その後、意見がかみ合わないことが出始め、徐々に間柄は壊れていくと、決裂へと向かっていきます。
専制を布きたい信長が『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』などで義昭をないがしろにしたからだ……とされていますが、その後に出された十七条の意見書を見ると、
「……義昭にもそれなりに理由があるんじゃね?」
と思われます。
そもそも現職の将軍に十七個もツッコミどころがあることが問題ですが、家臣の立場から主君に対して叱責する信長も相当失礼ではありますよね。
いったい十七箇条意見書とはどんな内容だったのか?
具体的に見て参りましょう。
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