十七箇条意見書と殿中御掟

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

足利家

信長から義昭へ鬼ツッコミ「殿中御掟」や「十七箇条意見書」には何が?

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殿中御掟と十七箇条意見書
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殿中御掟

まずは「殿中御掟」です。

このときはまだ、義昭の行動を制限するというより、将軍として「ちゃんと対応してくださいね」というもので、内容も簡潔・確認的なものがほとんど。

ですので後の「十七か条」は要約して記しますが、殿中御掟についてはウィキペディアを引用させていただきますね。

2回に分けて計14か条出されており、まずは【殿中御掟9か条】(1569年)から見て参りましょう。

◆御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りをよしとする。

◆公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。

◆惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。

◆幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する。

◆訴訟は奉行人(織田家の家臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない。

◆将軍への直訴を禁止する。

◆訴訟規定は従来通りとする。

◆当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。

◆門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

ウィキペディア「殿中御掟」より引用(Link

そして一年後の1570年――。

以下の『殿中御掟追加5か条』が追加されました。

◆諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事

◆御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事

◆公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事

◆天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事

◆天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

ウィキペディア「殿中御掟」より引用(Link

追加の方が、より行動規制感が強くなっていますね。

次の十七条はかなり戒めるような内容もあって、義昭さんには気の毒ですが、かなり面白くなっていきます。

内容は、おおむね二つに分類できるかと思うのでザックリまとめてみました。

左の番号①~⑰は十七条のうち何番目かを表しています。

 

十七条の意見書

【義昭の仕事ぶりに関するツッコミ】

① 兄君の義輝殿は朝廷をないがしろにしていたために、あのようなことになってしまいました。だから義昭様はきちんと参内してくださいと言ったのに、朝廷に行っていないそうですね(´・ω・`)

③・⑦ 功のある者に褒美をやらず、ささいなことを咎めて下の者を処罰するのは良くないですよ。おかげで困窮した者たちが信長に泣きついてきています。ドケチ。

④・⑤ 寺社の扱いもひどいと聞きました。義昭様ご自身の評価が下がりますよ? 何かお考えのことがあってかと思いましたが、そうじゃないんですよね?

⑧ 若狭の代官の件で訴訟があったと聞いていますが、再三申し立てられても無視しているのはどういうことですか?

⑨ 大した罪がない者の刀を取り上げてしまわれたそうですね。法を守るのは良いことですが、これじゃ「刀欲しさに厳罰を科す公方様だ」と思われますよ?

⑩ 改元の件、前から申し上げていますよね? 朝廷からもそうすべきとの命が出ていますが、幕府からすぐ費用を出すべきではないですか?

⑪ 烏丸家のもめ事、金を出させて解決したそうですね? 罪や人によって罰金を取ることもありますが、この件についてはいかがなものかと思いますよ。

⑭ 兵糧として蓄えておくべき米を売りさばいているそうですね? 商売に手を出す将軍なんて聞いたことがありません。

⑮ 宿直の武士にやる褒美は、その都度与えてやればいいのに、余計な役職を作って地位をすぐ上げるのはどうかと思いますよ。

⑰ ご自身の強欲のせいで、百姓まであなたのことを「恥も外聞もない公方様」「悪御所」と呼んでいますよ。胸に手を当てて考えて下さい。

【隠れてコソコソしている義昭にツッコミ】

② 何か要るものがあれば、信長が用立てるというお話をしましたよね?^^ なのに他の大名から馬をもらっているのはどういうことですかね^^^^^^

⑥ ウチ(織田家)に関わっている者、しかも女官にまで冷たく当たるのはやめてもらえませんか。信長は義昭様に協力しているのだから、織田家に仕える者も義昭様の役に立つ者なんですよ?

⑫ 他の大名から金銀が贈られることがあったそうですね。幕府の仕事に使っているわけでもないようですが、何のために貯金してるんですか?^^^^

⑬ 光秀が「町から取り立ててきた税金を買物の代金として公方様へお渡ししたのに、いつの間にか比叡山から取り立てたことにされて、しかも差し押さえられていました。な、何を(ry」と言ってきたのですが、どういうことですか?

⑯ 大名は武具・兵糧・金銀を蓄えていざというときのために備えています。義昭様もそうなさるのはいいのですが、この前そういったものを持って御所を出てしまったせいで、下々の者は「公方様は京を見捨ててしまうのか」と誤解してしまいました。自分の行動がどう思われるのか、よくよく考えてから行動してください。

 

将軍様に向かって何様? 包囲網を拡大じゃ!

確かにここまで事細かに「指導」されれば、口うるさいトーチャンに思えるのも無理はないかもしれません。

どれもこれも正しい言い分には思えます。

しかし、遅すぎる反抗期状態の義昭は、そう素直には聞き入れません。

「将軍様に対して何だその物言いは!!」とブチキレ、信長包囲網を拡大することに決めてしまいます。

信長は当時、武田信玄浅井長政朝倉義景と敵対していたので、「今ならもうひと押しでなんとかなる!」と思ったのかもしれません。

政争でも戦でも経験が劣る義昭が、そう簡単に勝てるはずがないんですけども。

こうした状況を鑑みた信長は、いったんは身を引くような動きも見せます。

義昭へ使者を出し、「この前のことはワシが言い過ぎました。誓紙と人質を出すので、仲直りしましょう」(超訳)と申し入れています。

しかし、既に“信長絶対殺すマン”になることを決めてしまった義昭は、これを断って戦支度を続け、ついに近江の今堅田城と石山城で旗揚げ。

この二つの城は織田軍を前にあっさり陥落してしまいます。

その上、義昭がアテにしていた武田信玄も病死してしまい、信長包囲網の半分以上なくなったも同然になります。

信長は、この時点でも「公方様、和睦しませんか」と申し入れています。

それでも義昭は断り続け、最終的には両者が激突。

槇島城の戦い】と呼ばれる戦いが起き、足利義昭は京都を追われてしまいました。

ちなみに義昭は、その後、毛利家を頼るなどして引き続き室町幕府の将軍としてあり続けますが、現実的に京都を離れ、政権を握ったのは織田信長だとして、このときが

【室町幕府の滅亡】

だとされます。

槇島城の戦い詳細については以下の記事をご参照ください。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
槇島城/Wikipedia
足利義昭/Wikipedia
殿中御掟/Wikipedia

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