最初はラブラブ蜜月の仲だったのに、すれ違いから罵り合い、果ては殺し合いにまで発展してしまう――。
織田軍の助力で上洛した義昭は将軍に就任。
本来の主従関係を考えれば義昭が上の立場ですが、実際は信長から義昭へ、何かと物言いがついており、いつしか「信長フザけんな」となっていきます。
では、どんな物言いだったか?
というと、永禄12年(1569年)1月14日に出された【殿中御掟】と、元亀3年(1572年)9月の【十七箇条意見書】が代表的です。
殿中御掟の読み方は「でんちゅうおんおきて」と読み、十七箇条意見書は文字通り「17個のクレーム」で、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも取り上げられてましたね。
ドラマでは具体的に一つ一つは記されていなかったので、本稿では、前後関係を踏まえながら全てを見て参りましょう。
※後に出された十七か条のほうが、より突っ込んだ内容だけに断然面白くなります
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兄の義輝を殺されアッチコッチを流浪
兄である十三代将軍・足利義輝が三好一派に殺されてから、三年間あっちこっちを流浪していた足利義昭。
最終的に(細川藤孝ら近親のおかげで)身を寄せたのが、織田家でした。
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信長は、後世のイメージに反して将軍家や皇室・朝廷などを割と大切にしていましたので、義昭自体を保護することは問題なかったでしょう。
そして信長とその妹婿・浅井長政らの協力によって、義昭は、三好家が跋扈していた京都に戻ってくることができました。
義昭だけならともかく、今をときめく織田軍が背後にいては、三好家に対抗手段はありません。
京都から退き、彼らが後釜に据えた十四代将軍の足利義栄(よしひで)は病死。
義昭が将軍の座に就くための障害は全て取り除かれました。
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「室町殿御父」と呼ぶほど信長を慕っていた
正当性のある将軍の存在は、諸国の大名からも歓迎されます。
島津家や毛利家からお祝いが届いたりして、義昭もヤル気満々。
信長が帰った隙を突いて、一度三好家からケチ(物理)がついたこともありましたが、織田軍が二条城を整備して義昭の安全を保証すると、それも落ち着きました。
何から何まで世話を焼いてくれた信長に、義昭はこの時点では絶大な信頼と感謝を寄せていました。
それは信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」という称号を与えたことにも現れています。
手紙では略して「御父」と書いていますね。
数歳しか変わらないのに大袈裟な気もしますが、これは他の幕閣と相談して決めた称号だったりします。誰かもっとツッコめなかったん?
まあ、この時点で信長の長子・織田信忠は既に元服が視野に入る年齢になっていましたし、義昭はまだ人の親になる前&自分の父親との思い出もあまりないですから、信長のどこかに「父性」を感じたのかもしれません。
そういうことにしておきましょう。
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