その信長が美濃へ帰国してから、二ヶ月ほど経った永禄12年(1569年)1月4日のことです。
義昭の将軍就任を認めない三好三人衆・斎藤龍興・長井道利らが、義昭の仮の御所としていた本圀寺(ほんこくじ・京都市山科区)を襲撃しました。
【本能寺の変】と語感は似ておりますが、コチラは「ほんこくじのへん」で全く関係ありません。
ややこしいことに明智光秀も絡んでおりますので、混乱なきようお進みください。
一体、本圀寺の変とはどんな騒動だったのか?
見てまいりましょう。
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本圀寺の変 首謀者は三好三人衆
将軍襲撃の中心となったのは三好三人衆。
その名の通り三好家のお偉いさんたちです。
【三好三人衆】
三好長逸(ながやす)
三好政康(まさやす)
岩成友通(いわなり ともみち)
ご覧のとおり三好一族の2名と、同家の有力家臣1名からなる三人衆で、松永久秀と対立したり協力したり、このあたりの時代ではよく出てきます。
もともとは三好長慶を主君として権勢を振るい、その後、長慶が亡くなると、足利幕府13代将軍・足利義輝を殺害するなどして【永禄の変】、畿内や四国にかけて暴れまわっていた人たちです。
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信長が義昭と上洛するときには、阿波へいったん逃げ、岐阜へ帰ると知るやスッ飛んでくる――抜け目のない方たちでありました。
斎藤龍興もまた信長公記ではお馴染みですね。
元・美濃の大名で、信長に稲葉山城(岐阜城)を奪われた人であります。
岐阜を追い出された後は、流れ流れて近畿へたどり着き、なんとか返り咲こうと画策しておりました。
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もう一人の長井道利は、素性に複数の説があります。
・斎藤道三の若い頃の息子説
・道三の弟説
などなど未だ確定していません。
斎藤氏関連でよく登場しますので、親族であることは間違いなさそうです。
彼らが兵を引き連れ、永禄12年(1569年)1月4日、将軍・義昭のいる本圀寺に襲いかかったのでした。
防備の薄い寺を守り切るだけでも殊勲
攻撃側の三好三人衆は、京都に入ると市中への放火を繰り返しました。
そして翌日5日には、義昭の仮御所である本圀寺を囲みます。
しかし、15代将軍・足利義昭を守る側には明智光秀や細川藤孝、藤孝の兄・三淵藤英(みつぶちふじひで)がおり、必死になって敵の侵攻を食い止めます。
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必死に抵抗し、敵の御所への侵入は防ぐことができました。
もしも義昭が討ち取られたり、あるいは生け捕りにされていたら、織田政権にとってもかなりの打撃となったでしょう。
防御の薄い寺ですから、守り切るだけで相当な殊勲となりますね。
もちろん無傷とはいかず、将軍方のうち若狭衆の山県盛信・宇野弥七が討ち死にしてしまいました。
彼らに関する詳細は現代に伝わっていませんが、著者である太田牛一が書き残しているということは、当時それなりに名の知れた武士だったのでしょう。
そうして守備陣が粘っている間に、今度は
「三好義継・細川藤孝・池田勝正などが、義昭を救援するためこちらへ向かっている!」
という情報が、三好三人衆方に伝わりました。
またまた出てきた三好姓やら細川姓。
ややこしいので、今一度、敵味方を整理しておきましょう。
将軍方(信長方):明智光秀・細川藤賢・細川藤孝・三好義継・池田勝正・(松永久秀)
反将軍(反信長):三好三人衆
という構図です。
三好は、同じ家中で敵味方に分かれていたんですね。
ただ、その理由が家の存続ではなく、三好家の主導権争いなので、実にしょうもない感があります。
久秀はこの頃、信長に従って岐阜へ行っていたため、変の勃発時に京都にはおりませんでした。
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