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【本圀寺の変(六条合戦)】
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「どちらも同じだから急げ」
しかし、そんなことをグダグダ言っていたら、最悪の場合将軍の命が危うくなる状況です。
怪我をしただけでも、信長の沽券に関わるでしょう。
日頃から世間の評判を気にしていた信長としては、評判がダダ下がりになることは避けたい。
そこで、信長自ら馬を降り、言い争っていた馬借たちの荷物を一つずつ点検して、
「どちらも同じだから急げ」
と命じたのでした。
こういう細かいことも家臣に任せきりにせず、自分でやるあたりが実に信長らしいですね。人間だもの、と言いたくなってしまう。
当時の岐阜で一番エライ人に直接言われれば、誰もゴネられませんから、結局早く始末はつきます。
信長らが出発したときも大雪は止んでおらず、人夫や下働きの者の中には、凍死者も出たとか。
危急の事態ですし、身分が低ければ低いほど、防寒対策はできなかったでしょうね……。
正式な将軍御所が必要だ
こうして、本来3日かかる距離を2日で駆け抜けた織田信長が京都に着いたのは、1月8日のことでした。
前述の通り、襲撃者たち三好三人衆らは、すでに明智光秀や三好義継、池田勝正らの働きによって撃退された後です。
とはいえ、途中でそれを知らされていたかどうかは不明ですから、信長たちは気が気でなかったことでしょう。
京都入りした信長は、本圀寺(六条御所)に直行。
義昭の無事を確かめると共に、当時の状況を聞きました。
そして、特に桂川方面で活躍した池田清貧斎という者に褒美を与えたといいます。
彼は池田勝正の家老で、俗名は正秀といいました。
生没年は不明ですが、天正三年(1575年)ごろから史料に登場しなくなるので、本圀寺の変が起きた永禄十二年(1569年)当時も老齢だったと思われます。
文字通り、年の功が活きたのでしょうね。
幸いにして義昭には大事なかったものの、本圀寺の変によって、正式な将軍御所の必要性が明らかになりました。
しかし、それには諸々の準備や織田家以外の人々の協力、朝廷への配慮などが必要になります。
次はそのあたりのお話です。
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※本記事は連載『戦国初心者にも超わかる信長公記』第56・57話となります
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)