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【朝倉景鏡】
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義景を自害へ追い込み信長のもとへ
いよいよ朝倉氏の敗戦が濃厚になった元亀4年(1573年)。
織田軍が浅井軍を急襲したとの報を受け、義景は景鏡に救援を命じました。
景鏡は、ここで思わぬ返事をします。
「ちょっと兵が疲れていましてね。その命令には従えませんわ」
もしも浅井家が滅びれば、朝倉家の滅亡も必至であり、ここはどうしても助けに行かなければならない場面。
そんな命令を拒否したこと自体、景鏡が『朝倉と運命を共にしてたまるか!』という心境を表しているようなものです。
結局、義景は自身で兵を率いて出陣し、信長の攻撃を受け潰滅してしまいました。
義景は、越前へ帰国して、庇護下にあった平泉寺と景鏡の力を借りて最後の一戦に臨もうとします。
ところが、です。
景鏡は、ここで容赦なく義景を裏切り、自害へ追い込むのです。
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その後景鏡は、朝倉の縁者を次々と捕縛し、それを手土産に信長のもとへ馳せ参じると、旧領の大野郡を安堵され、名を「土橋信鏡」と改めます。
しかし、彼の命運もそう長くは続きません。
朝倉旧臣である前波吉継(まえば よしつぐ)が新たな越前守護に任命されるも、同じく朝倉旧臣だった富田長繁が待遇の差に不満を抱き、越前一向一揆を扇動。
吉継は殺され、その後、一揆衆は「朝倉旧臣を根絶やしにする!」といきり立っていきます。
当然ながら、景鏡はその筆頭ターゲット。
一揆勢に狙われ、朝倉滅亡からわずか1年後の天正2年(1574年)4月14日、一揆勢との敗戦の末、自害へ追い込まれました。
この戦では、同じく義景を裏切った平泉寺も滅ぼされ、何か因果めいたものも感じてしまいます。
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朝倉氏滅亡の「戦犯」として糾弾され続ける
読者の皆さんは、景鏡の行動に嫌悪感を抱いたかもしれません。
実際、後世でも景鏡は「越前朝倉氏滅亡の戦犯」として糾弾され続けています。
例えば、天正5年(1577年)ごろに朝倉の旧臣が成立させたと言われる『朝倉始末記』では、景鏡の評価は散々なもの。
本編に挙げた彼の陰湿エピソードは、この史料で書き残されているものが多く、当時から評価が低かったことが分かります。
越前に伝わる狂歌でも皮肉たっぷりに詠まれました。
「日の本に 隠れぬその名 改めて 果ては大野の 土橋となる」
おそらくや地元でもボロボロな扱いなのでしょう。
もはや現代に伝わる史料から、景鏡を再評価するのは難しいところかもしれません。
しかし私個人としましては、『朝倉始末記』に描かれている景鏡の姿は、必ずしも正確ではない可能性もあるのでは?とも考えております。
同史料は、たしかに朝倉滅亡からそう日を経ずに書かれており、内容も比較的正確なため「良質な史料」であると言われます。
それでも朝倉滅亡の責任をすべて景鏡に背負わせるような書き方には、何らかの意図を感じざるを得ません。
父・景高の恨み――という観点から、景鏡を戦犯としておいた方が話はスッキリしますが、ならばなぜ、そんな景鏡を重用したのか?という問題もありますし、仮にリスクを承知で重臣としたならば、朝倉家自体が深刻な人材不足に陥っていた可能性も否めません。
そう考えると、滅亡の原因は朝倉家全体に関わるものであり、ある意味必然だったのか、とも思えてくるのです。
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文:とーじん
【参考文献】
水藤真『朝倉義景(吉川弘文館)』(→amazon)
松原信之『朝倉氏と戦国村一乗谷(吉川弘文館)』(→amazon)
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』(→amazon)