本能寺の変の直前に、四国の長宗我部元親が明智光秀の重臣にあてた書状が発見されました。
林原美術館(岡山市)と岡山県立美術館が23日に発表しています。
天正10年(1582年)6月2日に勃発した【本能寺の変】の理由を巡っては、単独思い付き説、朝廷黒幕説など数多くありますが、なかでも有力なのが四国説。
当初の信長は、四国をめぐって光秀を交渉役(厳密には今回の書状宛先である重臣・斎藤利三)にして、長宗我部に対して
「四国は切り取り次第(勝手にやってくれ)」
と約束しました。
しかし、信長は光秀から秀吉に四国担当を交代して、長宗我部に「やっぱり、チミは土佐と阿波の半分だけねテヘペロ」とちゃぶ台をひっくり返すのです。
この流れに光秀が大きなストレスを抱えたことは間違いなく、本能寺の変を起こす引き金になったといわれています。
今回、見つかったのは、岡山市の林原美術館が所蔵する戦国時代の古文書類「石谷家文書」の中からとのこと。
内容は下に載せていますが、長宗我部は一時、信長の無茶ぶりに従う意向を示したのに、信長が「一度逆らったやつはゆるせん」とばかり四国出兵を強行したことがうかがえます。
そりゃぁ、あかんよ、信長さん。
この金星をあげたのは林原美術館学芸課課長の浅利尚民さんと岡山県立博物館学芸課主幹の内池英樹さんで、平成25年12月から資料を再調査していて分かったそうです。
同美術館によると、以下の通り。
本能寺の変直前に関するもの
①斎藤利三書状(天正10年1月11日)第2巻所収
斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した書状。利三が書いた書状は、現在数通しか残されていません。
天正3年(1575)頃、織田信長は長宗我部元親に、四国内は元親の切り取り次第という許可を出していましたが、天正9年の後半頃に、土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達しました。
元親は承知せず、それを諫めるために利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと『長宗我部元親記』(寛永8年(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や『南海通記』(享保2年(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にはあります。
本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然が元親の軽挙を抑えるように依頼したもので、信長と元親との対立状況がわかるとともに、利三が元親に働きかけを行った確証となる史料です。
②長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収
長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状。
1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。
阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えています。
また「何事も頼辰へ相談するように」とも述べています。
5月の段階で信長は四国への出兵を命じており、戦闘を回避しようとした元親と信長の違いが明らかになります。
この2通の書状のやりとりで、本能寺の変直前の斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動が明らかになりました。
今後は、本能寺の変のきっかけとなった可能性のある書状として本資料が取り上げられ、さらに研究が進んでいくと思われます。(以上引用)