吉田兼見/wikipediaより引用

皇室・公家

吉田兼見の『兼見卿記』には何が書かれてる?本能寺の真相を光秀に聞いた祠官!?

短所を補う努力より、長所をトコトン伸ばすべし――。

昨今、巷で囁かれる教育論を、今から450年ほど昔の戦国時代に実践し、乱世を生き残った祠官しかん(神社に仕える人)がおりました。

その名も吉田兼見

吉田神社の祭祀を担う一族の長であり、『兼見卿記』という日記の著者としても知られますが、この兼見、とにかく人付き合いに長けており、公家や皇室のみならず戦国武将たちにも何かと重用され、政治の舞台に携わりました。

特に、あの明智光秀とは“親友”と言えるほど濃密な仲であり、当時「本能寺の真相を聞いたのではないか?」という状況。

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それでいて兼見の面白いところは、光秀が謀反人として成敗された後の豊臣~徳川政権でも、ちゃっかり生き延びているところでしょう。とにかく抜け目がないのです。

兼見とは一体いかなる人物だったのか?
その歴史を振り返ってみましょう。

 

吉田兼見は吉田神道の始祖家に生まれ

吉田兼見は天文4年(1535年)、吉田神道の始祖である吉田家に生まれました。

吉田神道は、別名で【唯一神道】ともいい、室町時代に誕生。
当時としては新興宗教の部類に入ります。

特徴は、なんといっても【反本地垂迹説】の提唱です。ザックリ説明しますと【神々は唯一の存在であり、ほとけ様の化身ではない!】という教えであり、中世社会へ急速に広まっていきました。

一方、【神々は仏様が姿を変えて我々のもとに現れている!(本地垂迹説)】と提唱する既存の神道とは真っ向から対立することになります。
例えば伊勢神宮系神道と勢力を競いあいましたが、兼見の曽祖父・吉田兼倶よしだかねとも(兼見の曽祖父)が吉田神道を大成させ、わずか100年足らずで社会に定着している様子が確認できます。

いわば新興企業が市場の一角を奪ったカタチになりますね。
更に、こうした吉田神道の普及に貢献したのが、兼見の父である吉田兼右よしだかねみぎという人物であり、彼は戦国時代という難しい時期にありながら、大内氏や朝倉氏に招かれて神道を説き、吉田神道の基盤を確立させました。

父の吉田兼右/wikipediaより引用

こうした父の生き方が、兼見に大きな影響を与えるのです。
兼見は後に、明智光秀の盟友となるだけでなく、細川家や羽柴家、織田家など、時の戦国大名たちに認められ、良好な関係を築いていきます。

家督を譲られたのは元亀元年(1570年)。
神祇官として内裏に仕える傍ら、天下を目論む戦国大名たちと活発に交流するようになりました。

 

日々の交遊録『兼見卿記』は非常に重要な史料

家督を継承したその年から、兼見は日々の出来事を『兼見卿記かねみきょうき』という日記にまとめていきました。

日記といえば私的な記録であり、バイアスもかかって、史料的価値があるのか?と疑問視される方もおられるかもしれません。

が、逆です。
吉田兼見のようなポジションにいる人の日記は、戦国時代を研究する上で非常に貴重な史料とされています。

なぜなら同時代の「有力な史料」は想像以上に少ないものでして。
戦国大名と同時代人であり、かつ公家や天皇事情にも通じている兼見の記録というのは、非常に高い価値を有しているのです。

特に、彼が積極的に交流した明智光秀の動静については、大半がこの史料に記載されている情報から割り出されているほど。

光秀との関わりについては後述するとして、まずは『兼見卿記』に伝わる、兼見と他の戦国大名たちについての接点に触れていきたいと思います。

最初は織田信長にアプローチしてみましょう。

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昇殿まで許されるようになった

兼見は光秀を通じて、当時、急速に力をつけていた織田信長と積極的に交流しました。

例えば信長と足利義昭の関係が悪化したときも、公家ながら武家にも顔が利くという立場を生かして兼見が仲裁。
その甲斐なく義昭は京都を追われてしまいましたが、かねてより信長と親しくしていた兼見には大きなダメージとはなりませんでした。

兼見は、信長が公に発表する情報を光秀経由で事前に知ることができていたため、様々なネットワークで情報通として信頼されており、その縁も活かして細川藤孝三淵藤英など、文化に造詣の深い幕臣たちとも親交を深めていきます。

他にも神祇官らしく、依頼があれば本業である祈祷や、信長が出かける狩りの御供などにも精を出しており、兼見から信長へのもてなしは慣例化していたともいいます。

結果、兼見は公家としての格も向上。
天正7年(1579年)には、信長の斡旋もあって昇殿まで許されるようになりました。

昇殿とは、清涼殿の殿上に昇ることであり、殿上人とも表現され、貴族の中でも上位の者たちに許された特権です。

さらに、堂上家という公家の中でも上位の家柄に列せられ、吉田家だけでなく新興宗教であった吉田神道の格をも大きく向上させます。

 

公家は大貧乏 八方美人でないと生きられない

当然ながら兼見は、戦国大名の相手だけでなく、公家としての務めや公家同士の交流にも努めておりました。

神祇官として細々とした雑務をこなし、公家と信長の関係が悪化した際には仲裁役を買って出るなど、「公家―武士間」の絶妙なバランスを担っていたのです。

さらに兼見は、天皇や親王、あるいは戦国武将からの頼みをキッカケに、医者や工芸家、茶器の製造者まで広く交流するようになっており、彼の交友能力を一言で表すと【コミュ力モンスター】といった感じになりましょうか。

むろん、彼が気配り人だったというだけでなく、吉田家の主として高い教養を有しており、万人の趣味や戯れにも積極的に応じることができたので人脈の幅も広がったのでしょう。

ただし、兼見がこれだけ交友関係を増やした背景には、ある残酷な事実も存在します。

戦国時代の公家は我々の想像よりも実はずっと貧乏。
天皇だけでなく武家に対しても八方美人な、ある種の「媚び」を求められたのです。

実際、織田信長の庇護があってこそ吉田家の格式を維持・向上できたわけで、単純に「友人知人が多い」とか、そういった視点で語ること相応しくありません。

家名を残すため戦国武将が軍事・政治・外交に明け暮れたように、兼見も交友関係こそが「戦い」でもあったわけです。

 

光秀初っ端の日記は「お風呂に入りたいんだけど」

前述のとおり『兼見卿記』では、とにかく明智光秀が何度も登場します。

言うまでもなく二人の仲が親密だったからであり、その仲は1570年から【山崎の戦い(1582年)】で光秀が滅亡するまで続くのですが……初っ端から一風変わったエピソードで非常に生々しい人物像が浮かび上がってきます。

元亀元年(1570年)11月13日の記録のこと。
このとき光秀は、兼見の家にあった「石風呂(この場合は蒸し風呂か)」を所望し、セッティングをしてもらいました。

実は『兼見卿記』に光秀の名が初めて登場するのはこのときの記録であり、『いきなり風呂かよ……』と困惑されるかもしれませんが、さすがに初対面で石風呂を求めることはないでしょう。
元亀元年(1570年)時点で、ある程度親密な交流があったと見る方が自然です。

同年から翌年にかけては、兼見だけでなく父の兼右も光秀と親しくしている様子が記録されており、元亀3年(1572年)になると、二人の仲はさらに深まっていきました。

光秀が、坂本城の建築を開始すると、以後、兼見は繰り返し訪問しているのです。

右から
青色=岐阜城
紫色=安土城
黄色=坂本城
赤色=吉田神社

坂本は、京都の入り口を押さえる要衝です。
確かに距離的には非常に近いですが、それにしたって仲の良い二人であります。

 

病気で伏せる光秀と妻の煕子も祈念した

元亀4年(1573年)に入り、軍事業務に多忙な日々を送っていた光秀。
その合間を縫って兼見が坂本を訪問すると、二人は連歌会に興じるなどして過ごしました。

そして、翌年の天正年間に入ると、光秀は文字通り馬車馬のように働かされるのですが、その間も何度か兼見が訪問していたことが確認でき、光秀の疲れを癒す貴重な時間となっていたことが窺えます。

しかし、さすがに限界を超え、過労がたたったのか。
天正4年(1576年)、光秀は病に倒れてしまいます。

なんせ天正3年(1575年)以後は、丹波攻めを指揮する傍ら、遊軍としても各地を転戦しており、疲労の蓄積は相当なものだったでしょう。
病状は決して軽くはなく、兼見が光秀を見舞うと、本業である「祈念」でもって治療を依頼されるほどでした。

また、光秀の病が落ち着くと、今度は彼の妻である妻木煕子明智煕子)も病に侵されてしまい、兼見はふたたび祈祷を行います。すると……。
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