昨今、巷で囁かれる教育論を、今から450年ほど昔の戦国時代に実践し、乱世を生き残った祠官(しかん・神社に仕える人)がおりました。
慶長15年(1610年)9月2日に亡くなった吉田兼見です。
吉田神社の祭祀を担う一族の長であり、『兼見卿記(かねみきょうき)』という日記の著者としても知られます。
この兼見、とにかく人付き合いに長けており、公家や皇室のみならず戦国武将たちにも何かと重用され、政治の舞台に携わりました。
特に、あの明智光秀とは“親友”と言えるほど濃密な仲であり、当時、あの「本能寺の真相を聞いたのではないか?」というような状況。
それでいて兼見の面白いところは、光秀が謀反人として成敗された後の豊臣~徳川政権でも、ちゃっかり生き延びているところでしょう。とにかく抜け目がないのです。
では、吉田兼見とは一体いかなる人物だったのか?
その歴史を振り返ってみましょう。
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吉田兼見は吉田神道の始祖家に生まれ
吉田兼見は天文4年(1535年)、吉田神道の始祖である吉田家に生まれました。
吉田神道は、別名で【唯一神道】ともいい、室町時代に誕生。当時としては新興宗教の部類に入ります。
特徴は、なんといっても【反本地垂迹説】の提唱です。
ザックリ説明しますと【神々は唯一の存在であり、仏様の化身ではない!】という教えであり、中世社会へ急速に広まっていきました。
一方、【神々は仏様が姿を変えて我々のもとに現れている!(本地垂迹説)】と提唱する既存の神道とは真っ向から対立することになります。
例えば伊勢神宮系神道と勢力を競いあいましたが、兼見の曽祖父・吉田兼倶(よしだかねとも・兼見の曽祖父)が吉田神道を大成させ、わずか100年足らずで社会に定着している様子が確認できます。
いわば新興企業が市場の一角を奪ったカタチになりますね。
更に、こうした吉田神道の普及に貢献したのが、兼見の父である吉田兼右(よしだかねみぎ)という人物であり、彼は戦国時代という難しい時期にありながら、大内氏や朝倉氏に招かれて神道を説き、吉田神道の基盤を確立させました。
こうした父の生き方が、兼見に大きな影響を与えるのです。
兼見は後に、明智光秀の盟友となるだけでなく、細川家や羽柴家、織田家など、時の戦国大名たちに認められ、良好な関係を築いていきます。
家督を譲られたのは元亀元年(1570年)。
神祇官として内裏に仕える傍ら、天下を目論む戦国大名たちと活発に交流するようになりました。
日々の交遊録『兼見卿記』は非常に重要な史料
家家督を継承したその年から、吉田兼見は日々の出来事を『兼見卿記(かねみきょうき)』という日記にまとめていきました。
日記といえば私的な記録であり、バイアスもかかって、史料的価値があるのか?
そう疑問視される方もおられるかもしれません。
しかし、逆です。
吉田兼見のようなポジションにいる人の日記は、戦国時代を研究する上で非常に貴重な史料とされています。
なぜなら同時代の「有力な史料」は想像以上に少ないものです。
戦国大名と同時代人であり、かつ公家や天皇事情にも通じている兼見の記録というのは、非常に高い価値を有しています。
特に、彼が積極的に交流した明智光秀の動静については、大半がこの史料に記載されている情報から割り出されているほど。
光秀との関わりについては後述するとして、まずは『兼見卿記』に伝わる、兼見と他の戦国大名たちについての接点に触れていきたいと思います。
最初は織田信長にアプローチしてみましょう。
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昇殿まで許されるようになった
吉田兼見は光秀を通じて、当時、急速に力をつけていた織田信長と積極的に交流しました。
例えば信長と足利義昭の関係が悪化したときも、公家ながら武家にも顔が利くという立場を生かして兼見が仲裁。
その甲斐なく義昭は京都を追われてしまいましたが、かねてより信長と親しくしていた兼見には大きなダメージとはなりませんでした。
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兼見は、信長が公に発表する情報を光秀経由で事前に知ることができていたため、様々なネットワークで情報通として信頼されており、その縁も活かして細川藤孝や三淵藤英など、文化に造詣の深い幕臣たちとも親交を深めていきます。
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他にも神祇官らしく、依頼があれば本業である祈祷や、信長が出かける狩りの御供などにも精を出しており、兼見から信長へのもてなしは慣例化していたともいいます。
結果、兼見は公家としての格も向上。
天正7年(1579年)には、信長の斡旋もあって昇殿まで許されるようになりました。
昇殿とは、清涼殿の殿上に昇ることであり、殿上人とも表現され、貴族の中でも上位の者たちに許された特権です。
さらに、堂上家という公家の中でも上位の家柄に列せられ、吉田家だけでなく新興宗教であった吉田神道の格をも大きく向上させます。
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