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【吉田兼見】
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二人の晩餐はこれが最期となった
残念ながら、二人の会話の詳細は日記に記されておりませんでした。
まぁ、当たり前ですよね。キッチリ記録が残されていれば、本能寺の変は現在のようなミステリーとはならなかったでしょう。
そう考えると非常に惜しまれますが、いずれにせよ吉田兼見は変について語り合うと城を去り、さらに2日後の9日になって光秀が兼見宅を訪問すると、京都のありとあらゆる人々が光秀を迎えに参ったと記録されています。
光秀はこのとき銀貨50枚を兼見に寄進。「これほどの幸せはない」と兼見も表現し、夕食を振舞っています。
この時点での食事は、いささか落ち着いて楽しむことができたかもしれません。
しかし、二人の晩餐はこれが最期となりました。
羽柴秀吉の軍勢が京都に向かっていたのです。
俗に【中国大返し】と呼ばれ、豊臣軍は神速の行軍で進んだとされます。
しかし、実際は「普通の速度では?」という指摘もあり、史実としては割り引いて考えた方が良さそうです。
いずれにせよ迫りくる秀吉と対峙した光秀は、6月13日に【山崎の戦い】で激突となりました。
日記を改ざん!光秀との関係をごまかす
山崎の戦いの結果は、もう皆さんご存知でしょう。
明智軍は豊臣軍に完敗し、光秀は落ち武者狩りに遭って命を落としたとされます。
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一方の吉田兼見も、ピンチに陥ります。
戦いの翌14日に「織田信孝の使い」と称する津田越前入道がやってくると、
「朝廷や五山に銀貨を与えたことについて、殿がお怒りである」
と告げられたのです。
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この一件、実は津田が「信孝の使い」を自称していただけで、実際に命令が下っていたわけではありません。
そのため、兼見は「お咎めなし」とされましたが、「謀反人・光秀と親しかったため危機に陥る」と判断したのでしょう。彼はある工作を施します。
『兼見卿記』の改ざんです。
兼見は、天正10年(1582年)に記述した光秀に同情的な部分をすべてカットした『正本』を作成したのです。
例えば
「謀反を語り合った」
「これほどない幸せだ」
といった描写をカット。
その代わりに、安土城を訪れた際に泊まった宿が
「実に不便だった」
という描写を追加します。
光秀と過ごした時間が不快だった――そんなことをアピールしたのですね。
まさしく公家ならではのサバイバル術でしょう。
ちなみに、光秀に友好的な描写を含む『別本』は6月12日で記録が途切れ、6月13日以降については『正本』で継続して記されています。
言うまでもないことですが、13日以降の描写からは光秀寄りの記述が消え、今度は一転して豊臣秀吉に配慮した内容に様変わりしております。
兼見自身は順調に出世を遂げていた
光秀の死後も、当然、吉田兼見の人生は続きます。
天正14年(1586年)には後陽成天皇の即位に伴い、これまで名乗っていた「兼和」という名から、お馴染みの「兼見」に改名。
天正18年(1590年)には、かねてからの悲願だった神殿の再興を果たし、「神祇官代」としての地位を確立しました。
大きな功績を残した兼見は、文禄元年(1592年)に息子の吉田兼治へ家督を継承します。
そして自らは第一線を退き、後陽成天皇へ『日本書紀』や『中臣祓(なかとみのはらえ)』といった皇室関係の古文講義を行う余生を送りました。
また、豊臣秀吉が亡くなると、彼は弟である梵舜らと協力して秀吉を神として祀る豊国社の創建に尽力します。
こうして戦国の世を巧みに生き抜いた兼見は、慶長15年(1610年)に76歳で没しました。
★
兼見の生涯を振り返ってみると、とにかく交友関係が広く、世渡り上手であることがよくわかります。
特に光秀死後の対応はあまりに顕著だったため
「戦国を生き抜く世渡り上手」
というより
「八方美人で薄情な奴!」
そんな評価を下される方がおられるかもしれません。
ただし、事はそう単純ではないと思うのです。
前述の通り、荒廃しきった社会情勢のもとで公家・神道家が生き残るには、とにかく権力者の庇護が必要でした。
兼見はそれを実行しただけ。
そしてその手腕が巧みだったからこそ光秀とも馬が合ったのでしょう。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
田端泰子「本能寺の変直後までの吉田兼和の生き方と交友関係」『京都橘大学紀要』(→link)
金子拓/遠藤珠紀『『兼見卿記』自元亀元年至四年記紙背文書』(東京大学史料編纂所PDF)
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon)