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【吉田兼見】
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公家は大貧乏 八方美人でないと生きられない
当然ながら吉田兼見は、戦国大名の相手だけでなく、公家としての務めや公家同士の交流にも努めておりました。
神祇官として細々とした雑務をこなし、公家と信長の関係が悪化した際には仲裁役を買って出るなど、「公家―武士間」の絶妙なバランスを担っていたのです。
さらに兼見は、天皇や親王、あるいは戦国武将からの頼みをキッカケに、医者や工芸家、茶器の製造者まで広く交流するようになっており、彼の交友能力を一言で表すと【コミュ力モンスター】といった感じになりましょうか。
むろん、彼が気配り人だったというだけでなく、吉田家の主として高い教養を有しており、万人の趣味や戯れにも積極的に応じることができたので人脈の幅も広がったのでしょう。
ただし、兼見がこれだけ交友関係を増やした背景には、ある残酷な事実も存在します。
戦国時代の公家は我々の想像よりも実はずっと貧乏。
天皇だけでなく武家に対しても八方美人な、ある種の「媚び」を求められたのです。
実際、織田信長の庇護があってこそ吉田家の格式を維持・向上できたわけで、単純に「友人知人が多い」とか、そういった視点で語ること相応しくありません。
家名を残すため戦国武将が軍事・政治・外交に明け暮れたように、兼見も交友関係こそが「戦い」でもあったわけです。
光秀初っ端の日記は「お風呂に入りたいんだけど」
前述のとおり『兼見卿記』では、とにかく明智光秀が何度も登場します。
言うまでもなく二人の仲が親密だったからであり、その仲は1570年から【山崎の戦い(1582年)】で光秀が滅亡するまで続くのですが……初っ端から一風変わったエピソードで非常に生々しい人物像が浮かび上がってきます。
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元亀元年(1570年)11月13日の記録のこと。
このとき光秀は、兼見の家にあった「石風呂(この場合は蒸し風呂か)」を所望し、セッティングをしてもらいました。
実は『兼見卿記』に光秀の名が初めて登場するのはこのときの記録であり、『いきなり風呂かよ……』と困惑されるかもしれませんが、さすがに初対面で石風呂を求めることはないでしょう。
元亀元年(1570年)時点で、ある程度親密な交流があったと見る方が自然です。
同年から翌年にかけては、兼見だけでなく父の兼右も光秀と親しくしている様子が記録されており、元亀3年(1572年)になると、二人の仲はさらに深まっていきました。
光秀が、坂本城の建築を開始すると、以後、兼見は繰り返し訪問しているのです。
当時の織田家重要拠点をgoogleマップで確認してみましょう。
右から
青色=岐阜城
紫色=安土城
黄色=坂本城(光秀)
赤色=吉田神社(兼見)
と並び、坂本は、京都の入り口を押さえる要衝です。
確かに距離的には非常に近いですが、それにしたって仲の良い二人であります。
病気で伏せる光秀と妻の煕子も祈念した
元亀4年(1573年)に入り、軍事業務に多忙な日々を送っていた光秀。
その合間を縫って吉田兼見が坂本を訪問すると、二人は連歌会に興じるなどして過ごしました。
そして、翌年の天正年間に入ると、光秀は文字通り馬車馬のように働かされるのですが、その間も何度か兼見が訪問していたことが確認でき、光秀の疲れを癒す貴重な時間となっていたことが窺えます。
しかし、さすがに限界を超え、過労がたたったのか。天正4年(1576年)、光秀は病に倒れてしまいます。
なんせ天正3年(1575年)以後は、丹波攻めを指揮する傍ら、遊軍としても各地を転戦しており、疲労の蓄積は相当なものだったでしょう。
病状は決して軽くはなく、兼見が光秀を見舞うと、本業である「祈念」でもって治療を依頼されるほどでした。
また、光秀の病が落ち着くと、今度は彼の妻である妻木煕子(明智煕子)も病に侵されてしまい、兼見はふたたび祈祷を行います。
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すると……兼見の気遣いもあってか。
明智夫妻の病はどちらも回復し、光秀は「先日祈念祝着」と感謝を示しました。
以後も、兼見が坂本を訪れたかと思えば光秀が京都を訪れ、吉田家の小姓が逃げて行方をくらましてしまった際には光秀がその問題を解決するといった「ビジネス的」な付き合いだけでなく、光秀が夕食を振舞ったり、今度は兼見が石風呂でもてなすといったプライベートな付き合いも重ねます。
ここまでくるともはや親友――お互いに打算はあったでしょうが、それを超越した関係性が見てとれます。
だからこそ気になるのが【本能寺の変】です。
光秀はクーデター直前に腹心たちに打ち明けたとされますが、吉田兼見との関係はいかなるものだったのでしょうか。
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天正10年(1582年)6月2日未明。
明智光秀は、中国地方で備中高松城の戦いを繰り広げている羽柴秀吉を救出すべく、1万3千の兵を引き連れ、そして突如進路を変えて京都の織田信長に襲いかかりました。
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変に際し、吉田兼見は事件発生直後の6月2日に「光秀が信長を殺害した」という情報をキャッチします。
そして彼はすぐさま光秀のいる粟田口へ駆け付け「オレの領地のこと、よろしく頼むよ」と告げました。
しつこいようですが、公家の兼見が勢力を維持するためには時の権力者による庇護が必要です。
信長が亡くなった以上、その役割を光秀に期待したのでしょう。
6月3日~5日は光秀に関する噂をいくつか耳にし、6日には朝廷から呼び出しがかかりました。
あやうく変に巻き込まれそうになった誠仁親王(さねひとしんのう)より、光秀との関係性が考慮された上で「朝廷の使者」になるよう命じられたのです。
公家ならでは兼見ならではの処世術がまさに役に立った場面。
7日に安土城を訪問した兼見は、城内で光秀と【今度謀反の存分】、つまり【今回の謀反について】語り合ったと記録されています。つまり……。
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