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【岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件】
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ペッソア処刑がアッサリ確定
藤広は、朱印船を派遣した有馬晴信に対してこんな密告をしました。
「今、日本に来ているペッソアという奴が、マカオであなたの船の乗組員をブッコロしましたよ! これは大変なことですから、ぜひ大御所様に言上して処罰していただかなくては!」
おいおい、藤広さん、さすがにそれは酷いって。
そう泣きたくなるのがペッソアでしょう。
その頃、駿府では別の西洋人たちがやってきていて、家康たちがその対応をしているところ。
平戸に入港していたオランダ船からの使者と、上総で難破して日本側に救助されていた前フィリピン長官・ドン=ロドリゴ=デ=ビベロが、相次いで家康に謁見しておりました。
彼らはそれぞれ、自国と日本との交易を望んでおり、家康も「いいよ」と返事しています。
つまり、相手がポルトガルでなくても、西洋の文物を日本に入れられるルートが作られつつあったのでした。
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そのため、晴信から朱印船の件を聞いた家康はアッサリ命じます。
「付き合いがめんどくさくなりそうなポルトガルはもういいわ。ペッソアとかいう奴は、責任取ってもらうってことで処刑。有馬のほうでカタをつけるように」
藤広も長崎奉行の権限を使って、ペッソアの取り調べをしようとしていました。
危険な空気を感じ取ったペッソアは船にこもって出港の準備を開始。
さらにそれに気付いた藤広も警戒し、晴信が駿府から長崎に帰ってくると、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を拿捕する準備を始めました。
まさに、一触即発という状況です。
ヘタすりゃポルトガルと日本の全面戦争
慶長十四年十二月(1610年1月6日)。
日和待ちをしていたノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を、有馬家の兵が攻撃しはじめました。
当然、相手からの大砲等による反撃で、有馬側も大きな損害を受けたのですが、数日後、ついに船は炎上します。
ペッソアは火薬庫に自ら火を放ち、船と共に沈んだと伝わっています。
もう少し後の時代であれば、ポルトガルと日本の全面戦争になってもおかしくないようなこの事件。
幸い、両国の距離が離れており、当時の航海技術ではポルトガルから大軍を即座に送るのは難しかったことなどから、そうはなりませんでした。
しかし何もなく済むはずもありません。この事件により、長崎-マカオの通行は一時止まってしまいました。
ただし、経済的な理由もあって、双方ともに早期解決を望んでいます。
マカオの経済は長崎との貿易に強く依存していたばかりか、この時代は日本側も関係を完全に断ち切ることは不可能でした。
生糸の生産量がさほど多くなく、中国からの輸入に頼っていたため、ポルトガル船が運んできてくれないと困ったのです。
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そこで関係修復への交渉は早めに行われました。
ポルトガル人からは、有馬家の兵などに対して処罰が求められました。
が、家康によって「今回の件に対して、さらなる処罰は認めないが、貿易は今まで通りにする」というお墨付きが出されます。
本来、この件はそこで片が付くはずでした。
というか、ポルトガルとの間の話はこれでカタがついています。
この先こじれてくるのは、国内での話。
ここから先が、いよいよ岡本大八事件となります。
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