慶長十七年(1612年)5月6日は、九州のキリシタン大名・有馬晴信が処刑された日です。
この人の一生を一言でまとめるとしたら、
「家を守るために生き、死んだ」
というところでしょうか。
どの大名であってもそれは同じといえば同じなのですが、彼の場合は家を守るためにやったこととその末路が(´;ω;`)ブワッ
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兄が亡くなりわずか4才で家を継ぐ
晴信の生まれは永禄十年(1567年)。
伊達政宗や立花宗茂、真田幸村(異説あり)が生まれた武将豊作年の一人です。
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現代で言うなら、【花の67年組】ってところでしょうか。この年に生まれた人の年表を並べたら、興亡の差が激しくて唸りそうですね。
晴信は次男だったため、本来なら家督を継ぐことはありませんでした。
が、兄が若くして亡くなり、わずか4歳で家督を継承。この流れの時点でもう嫌な予感がしますよね……。
実際、晴信は生涯「何かと何かの板挟み」という状況に置かれて悩みました。
龍造寺と島津、そしてイエズス会に囲まれて
最初の板挟みは、龍造寺家とイエズス会です。
有馬家は龍造寺家と領地を接していましたが、単独で対抗できるほどの力はありません。
そこで、西洋の武器と資金的な援助を手に入れるため、イエズス会に接近したのです。そのためにはキリシタンになることが不可欠でした。
次に島津家を頼ります。
島津家の動きからすれば、龍造寺家の次は九州全土を手にすべく動くことが予測できそうなものですが……晴信は警戒心が足らなかったか、あるいはそれだけ切羽詰まっていたのでしょう。
【沖田畷の戦い(1584年)】で島津家と共に龍造寺家に勝利――と、そこまではよかった。
しかし案の定、有馬家はイエズス会と島津家の板挟みになってしまいました。
沖田畷で勝った後、晴信はイエズス会に長崎・浦上の地を与えているくらいですから、心情的にはイエズス会のほうを信じたかったのかもしれません。
勝てたおかげで信仰もますます深まり、城下に教会や西洋学校を設立。
多くの宣教師や西洋商人を迎え入れ、後の天正遣欧少年使節のメンバーの中にも、有馬家の領内にあった西洋学校出身の人がいます。
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また、海に面した立地を利用して中国とも交易を行い、かなりの利益をあげていたようです。
豊かな土地ではないだけに、商売で国を養っていこうとしたのでしょう。
小西行長を頼り、豊臣政権では立場をキープしたものの
かくして島津家との対立が避けられなくなってからは、同じキリシタン大名の小西行長に渡りをつけました。
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豊臣秀吉への便宜を図ってもらい、島津征伐に協力することで、家を守ろうとしたのです。
これは成功し、後の朝鮮出兵にも参加して、秀吉政権での立ち位置は揺るぎないかに見えました。
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しかし、秀吉が諸々の理由でバテレン追放令を出したあたりから、少しずつ雲行きが怪しくなってきます。
晴信はすぐにキリシタンや宣教師たちを迫害する気になれず、彼らを匿うような行動を続けたのです。
関ヶ原の戦い(1600年)では東軍になって生き残り、小西行長が処刑されると、晴信がキリシタンたちの心の拠り所となっていきました。
キリスト教に傾倒するあまりに寺社を破壊し、そこに使われていた石などを城の階段に使ったらしき遺構があるため、かなり強烈なこともしていたようです。
確かに、寺社の破壊は、あちこちのキリシタン大名がたびたび行っていました。
ただ、お寺にあった石をわざわざ踏ませるというのは、何やら偏執的な感がありますね。まぁ、後にキリシタンのほうが踏み絵をさせられるんですが。
ポルトガル拠点のマカオで殺傷事件勃発
江戸時代に入ると、キリシタンへの視線は厳しくなるばかり。その矢先に、海外で割と洒落にならない事件が起こります。
香港の先にあるマカオで、晴信の船の乗員がマカオでドンパチをやらかし、日本人の死傷者が多数出たのです。
当時のマカオはポルトガル領で、責任者はアンドレ・ペッソアというポルトガル人でした。
いくら同じキリシタンとはいえ、晴信も船員を殺されて黙っていられません。
晴信は家康に許可を取り付け、長崎までコトの経緯を説明しに来ていたペッソアとポルトガル商船を砲撃。
ペッソアは船員を逃がした後に自ら船を爆破し、海の藻屑となっています。
結果、イエズス会との関係が悪化しました。
そりゃあ、当然ですわな。
イエズス会からすれば「今まで俺たちが助けてやったのに!」という気分になるのも当たり前の話です。マカオで先に暴力を振るったのがどちらなのかはわかりませんが……。
さらにここで、幕府から来ていた目付役(大名などが不審な動きをしないか見張る人)の岡本大八という人物が、晴信に甘言します。
「家康様はいたくお喜びですから、今ならこの功績でもって、龍造寺家に奪われていた土地を取り戻せるかもしれませんよ^^」
滅亡への一歩目はかくして踏み出されたのでした。
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