伊達成実イメージ

伊達家

伊達成実の生涯|独眼竜を躍進させた猛将は御家を出奔した経験もあり

2025/04/17

独眼竜・伊達政宗――その人気は今さら説明するまでもないでしょう。

人を喰ったような性格。

秀吉を相手にした大胆エピソード。

伯父・最上義光との攻防や、母・義姫の関係など。

まるで「戦国時代を盛り上げてくれ!」と言わんばかりのキャラ設定ですが、ひょっとしたらそのために最も割りを食っているのが伊達家の家臣団かもしれません。

伊達家の中にも、政宗を支えた凄腕の武将は数多おります。

いの一番に思い出されるのが兄貴分の片倉小十郎景綱かもしれませんが、

今回注目したのは彼ではありません。

伊達成実(しげざね)――。

奥州の名門一族の中でも血筋に恵まれた、伊達家随一の勇将であり、昨今はゲーム等でも人気が特に上がってきている武将の一人です。

では史実の成実には、いかなる働きがあったのか?

政宗との関係は?

その生涯を追ってみました。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

伊達一門の貴公子

伊達一門の貴公子――。

政宗の一歳下である成実は、永禄11年(1568年)に誕生しました。

伊達家は男子が多く、一門には大勢の男子がおります。

成実の父・伊達実元は、伊達家14代当主・伊達稙宗の五男。母・鏡清院は伊達家15代当主・晴宗の二女でした。

両親ともに伊達一門ですから、まさに貴公子ですが、彼の両親自体は子に恵まれず、成実にきょうだいはおりません。

そんな彼にとって伊達宗家嫡男の伊達政宗は、まさに兄のような存だったのです。

伊達政宗/wikipediaより引用

成実は、知勇の鍛錬を欠かしませんでした。

荒川秀秋という兵法者「天流」の武芸を、了山和尚から学問を習っています。

こうした教えを確実に身につけていった成実は、天正11年(1583年)、父・実元の跡を継ぎ、一門の中での責任が増大します。

伊達家を守る若き当主として、期待されるようになったのです。

まだ若い当主である政宗にとって、同年代で血の濃い成実は、力強い存在だったことでしょう。

 


父を撃ち、周囲大名からも大ヒンシュク!

天正12年(1584年)10月。伊達家の家督は輝宗から政宗へと渡されました。

わずか18歳で当主となった政宗。

成実が家督を継いだ翌年のことです。

41才の父・輝宗は、全権委譲したわけではなく、伊達家は二頭体制となります。

伊達輝宗/wikipediaより引用

こうした例は伊達家に限らず近隣の東国(東日本)だけを見ても、佐竹義重から佐竹義宣、北条氏政から佐竹氏直という組み合わせで見られます。

これまで家督相続をめぐり、争いが続いてきた伊達家です。

トラブルを避ける為の処置という見方もできます。

しかし、この父子二頭体制は程なくして崩壊。天正12年(1584年)、輝宗が不可解な横死を遂げてしまうのでした。

背景には、政宗の強引な攻勢がありました。

政宗の強行な姿勢に反発した二本松城主・畠山義継が、隙を見て輝宗を強引に捕らえてしまったのです。

父を盾にした義継を、伊達勢は輝宗ごと鉄砲で射殺してしまいます。

「わしを射てー!」と、輝宗が叫んだ……とも言われておりますが、史実的には定かではありません。

いずれにせよ、この行為は、当時かなり批判されております。

輝宗に殉死したベテラン家臣も出る中、伊達家は急激な若返りを求められます。若い政宗とそんな主君を支える家臣たちは、伊達家全体とそれに反発する奥羽大名という圧力がのしかかるようになったのです。

成実にとっても、なかなか大変なことであったでしょう。そしてこの直後、成実人生最大のピンチが訪れます。

天正13年(1585年)、佐竹義重率いる佐竹勢との戦い【人取橋の戦い】です。

 

真田や上杉相手に苦戦を強いられていた

政宗といえば、向かうところ敵なし、奥羽最強の将という印象があるかもしれません。

これは実は割と盛られた話でして。

【大坂夏の陣】では数の上で勝りながら、真田信繁(幸村)相手に苦戦しております。

【北の関ヶ原】こと【慶長出羽合戦】でも、上杉勢相手に苦戦をしたせいか、徳川家康からはかなり少なめの加増で終わっております。

そんな政宗にとって、最大の屈辱であり苦戦とも言えたのが「人取橋の戦い」でした。

輝宗の死後、奥羽の大名たちは強引な政宗に、厳しい目線を向けるようになっております。

伯父の最上義光(※義光の妹・義姫が政宗の母)は露骨に警戒を促しておりますし、他の大名も同様の見方でした。

最上義光

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用

なぜ、そうなったか?

政宗は路線を変えました。輝宗以前の協調ではなく、周囲を武力で従わせるような強引な策を推し進めたんですね。

昔から東北の雄だった伊達家は、奥羽(東北全般)各地で、婚姻政策による同盟関係を保っておりました。

普通なら共闘スタンス――そうした姻戚関係の相手にすら牙を剥き出したのだから、周囲の敵愾心も大変です。

例えば二階堂盛義の正室・大乗院(阿南の方)は、政宗にとっては伯母にあたります。彼女は夫の死後も女城主として甥の政宗に抵抗をつづけ、援助もキッパリと断り通しました。

そんな伊達家に対抗する奥羽大名を援助し、政宗を牽制すべく動いたのが佐竹義重。

関東の雄が満を持しての出陣でした。

佐竹義重の目的は、二本松氏の救援でした。

時は旧暦十一月十七日。

猛烈な雪が降る中、関東の雄と奥羽の雄が激突します。

と言っても戦いの趨勢はどちらに……とかそういうレベルではありません。

なんせ佐竹勢率いる南奥羽大名連合軍の三万に対し、伊達勢は七千ほど。

「あの片目の男をねらえ!」

佐竹勢はそう言い合いながら、首を狙って政宗に殺到しました。

勝敗は、ハナから決まっていたようなものでした。

佐竹を中心とした3万もの強敵に対し、たとえ伊達勢がイケイケだとしても、兵力7千では話になりません。

防戦一方から敗色ムード濃厚。

それはもはや戦いというよりも、政宗の首を狙った掃討のような、そんな地獄絵図であり、政宗自身にとって最大の危難でした。

政宗は本宮城を目指し、必死で渡河するほかありません。

逃げる、それしか出来ない。

彼の身体には、矢一筋と銃弾五発が命中するほどの激戦でした。

 

日も落ち敗北必至になったそのとき奇跡が起きる

老将・鬼庭左月斎良直は、当時かなりの老齢。兜も甲冑を身につけることすら出来ません。

それでも手に政宗から拝領した采配を握りしめ、主君を守る盾となりました。

そしてそのまま討ち死にを遂げます。

目前で討ち死にを遂げた忠臣に心動かされた政宗は、反撃すら試みますが、根性でどうこうなるレベルではありません。

若き伊達成実も、主君を逃すべく奮闘する他ありません。

とはいえ、彼は政宗よりも若い将です。

勇気を振り絞って孤立する中、留まり続ける成実に、家臣たちも声を掛けます。

「多勢に無勢です。これでは本陣も持ちますまい……ここはひとまず退かれた方が良策でしょう!」

家臣がそう成実に進言してきました。

しかし、成実は、断固として彼らの意見を無視。それどころか、日頃の鍛錬の成果を見せるべく大太刀を抜き払い、敵軍へと斬り込んでいくのです。

若きリーダーの奮闘を見て、家臣や兵士も続かないわけにはいかない。槍を掲げ、皆で敵陣へと突き進みました。

その猛烈な勢いに、さしもの佐竹勢も一瞬怯みます。崩れゆく味方の中、突き進む成実はまさに猛将。戦いぶりは、武士の魂の結晶とも言えました。

やがて日が傾き、寒さが厳しくなってゆきます。

絵・富永商太

いくら熱い闘志を以てしても、もはや体力の限界。

身体が動かない――。

そう諦念しかけたとき、伊達勢にとっては目を疑うような光景が広がりました。

佐竹勢が、兵を退き始めたのです。

伊達勢からすれば奇跡的な展開。

佐竹にとっては、別の事情がありました。

佐竹の国内で不穏な動きがあり、撤退せざるを得なかったのです。

もしもこの幸運がなければ、政宗も成実も、若い命を散らしていたかもしれません。

まさに危機一髪でした。

 


奥羽を席巻する政宗の元で

九死に一生を得た政宗。

これを気にしてしおらしくなったのか?と言いますと、そんなことはありません。

奥州を武力で制圧すべく、強気の進撃を続けます。その傍らで見守り続けたのが、成実でした。

政宗にとっての悲願は、会津の名門・蘆名氏を攻略することです。

会津とは、奥州の中でも広大な盆地が広がり他国へと繋がる要衝であり、ここを抑えねば奥州を制覇したとは言えない、そんな場所でした。

当然ながら蘆名家も強く、伊達家といえども歯が立たない――状況は、政宗の時代に変わりつつありました。

天正12年(1584年)第18代当主であった蘆名盛隆が、23歳という若さで家臣によって殺害されてしまったのです。

蘆名盛隆が殺害された本拠地・会津若松城(鶴ヶ城・黒川城)

後継者を擁立しようにも、乳幼児しかいない国がまとまりにくいのは説明するまでもないでしょう。こんな時、息の掛かった者を後継者として擁立させ、力を伸ばすことを伊達家はよく行っておりました。

例えば、最上義光の父・義守もこの例です。

家督相続時、まだ幼児に過ぎなかった義守は、養母として伊達尚宗の娘が後見についておりました。そのせいか、義守は生涯伊達家に対して頭が上がらないところがあったのです。

そして、こうした姿勢が彼の子である義光と一致せず、父子は深刻な対立に陥ったこともあります(「天正最上の乱」)。

事態を警戒した蘆名家では、後継者に佐竹義重の子である義広を選びました。

 

「摺上原の戦い」が火蓋を切る

弟の小次郎を据えたかった政宗としては、許しがたい選択。

もしも蘆名家が小次郎を当主に据えていたならば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

こうなっては、もはや政宗にとって、蘆名家は滅ぼすべきものでしかありません。

政宗は大崎攻めで手こずり、伯父である最上義光と一触即発となって、母・義姫のとりなしで和解に至る等、様々な事情がありました。

そうした事情が落ち着いた天正17年(1589年)。政宗にとって、最大の勝利とも言える【摺上原の戦い】が火蓋を切ったのです。

名峰磐梯山と猪苗代湖のすぐそば、摺上原に布陣した伊達勢。

成実は、政宗、片倉景綱に次ぐ三番手として出撃しました。

片倉景綱/wikipediaより引用

当初は、会津の地形をよく知り、数でも勝る蘆名勢が優勢でした。

それが風向きの変化によって、逆転の好機が到来し、もうもうと煙る中、伊達勢は崩れた蘆名勢を追い詰め、大勝利をおさめたのです。

蘆名勢の死者は、2千に迫ったとも言われております。事実、同家を滅亡に導く大勝利でした。

この戦いにおいても、成実は伊達家臣団の中核を担い、存在感を見せ付けております。

このとき、勝利を収めた伊達勢が歌っていたのが、『さんさ時雨』という民謡なのだとか。

会津地方では不吉な歌としてタブーであったとか、蘆名氏の頃から歌われていたのであるとか、諸説あります。この歌を、成実が作詞したという逸話もあります。

真実かどうかははっきりしないが、それほど大勝利に酔いしれたということでしょう。

しかし、この「摺上原の戦い」は合戦に勝って、勝負に負けたようなものであったかもしれません。

天下を統一しつつあった関白・豊臣秀吉は、政宗にこう突きつけ、釈明を求めて来たのです。

【摺上原の戦い】は、惣無事令の違反である――。

 


「干城」として主君を守る

天正18年(1590年)。

豊臣秀吉が関白として天下統一を進めてゆきます。その目は、奥羽にも向けられておりました。

この動きをどう見るか?

「これぞ好機! 天下人に私こそが大名だと認めてもらおう」

そう考えた大名もおります。

伊達政宗としばしば対立してきた最上義光がそうです。

義光は「関白が認めた出羽の支配者はこの義光。皆従うように」というふうに喧伝を始めました。

他に、安東実季の配下であった蠣崎慶広は、抜け目なく秀吉に接触、蝦夷地支配の大名という特異な地位を認められます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

一方で政宗にとっては、大いなる挫折となりました。

彼が天下を狙っていたとは思えませんが、奥州の要である会津を返す羽目になるのですから、たまったものではありません。

関東の北条氏は、まだ秀吉に抵抗しています。力を合わせれば、秀吉の天下統一に対抗できるかもしれない――そんな思いもよぎります。

ちなみに彼の父である伊達輝宗の時代。

もしも西国が攻めて来たら、陸奥と出羽で力を合わせて戦おうという盟約が、隣国・最上義光との間にありました。

しかし、政宗の代になると両者は決裂し、このときの義光は伊達政宗の監視役を秀吉に対して買って出ていたほどです。

政宗も、外交を無視していたわけではありません。

秀吉に使者を送り、陸奥の守りは任せて欲しいとアピールしてはいるのです。

しかし、秀吉からすればそんなものは無駄なこと。

「言いたいことがあるならば、本人が来なさいよ。北条攻めの小田原に集合な」

小田原征伐の始まりでした。

 

成実は秀吉の意見など知らんこっちゃ

こうなると、政宗も家臣の意見を聞くほかありません。

片倉景綱や原田左馬助宗時らは、もはや小田原に向かうのみ――と意見を述べ、小田原に向かうと決めたのでした。

弟・小次郎の死といった混乱もあったものの、政宗は小田原に向けて出発します。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)

成実だけは「徹底抗戦だ!」と反対したと言います。

そのためか、小田原には向かうことなく、自領で留守を守ることとなったのです。

これこそ、秀吉相手に抗戦すべきであると息巻いた猛将には、うってつけの役目です。

政宗の留守中に隙を狙おうとしても、そんなことを成実は許しません。

政宗は、成実を「干城」と評したとされております。

主君のため、命を賭して城となり、盾となる、そんな忠臣のことです。

さらに成実の兜の前立て(兜の飾り)は、毛虫でした。

決して後退しない習性にあやかったものです。

その前立て通り、彼は決して退くことなく、主君である政宗を支え続けたのです。

 


試練のとき 主君と袂を分かつ

豊臣政権下での成実は、

・葛西大崎一揆の鎮圧

・文禄の役

といった戦いに参戦を果たし、活躍を続けました。

政宗の側にいることと、伊達領を守ることを、交互につとめていたのです。

政宗は京都で、茶の湯や他大名との交流を楽しんでおりました。

奥羽出身の大名の中には、周囲から見下されることを気に病んでしまう者もおりましたが、さすが名門出身の政宗は違います。馬鹿にされてなるものかと、精力的に活動していたのです。

そんな政宗に、文禄4年(1595年)、大きな試練が襲いかかります。

関白・豊臣秀次の切腹に巻き込まれ、豊臣政権への謀叛を疑われたのです。彼にとって従妹にあたる最上義光の二女・駒姫は処刑すらされております。

駒姫像/wikipediaより引用

このとき【伊達家と最上家が天下に対して反逆を企てている】という、荒唐無稽な立て札が出回りました。

あまりにも無謀な内容であるとして、かえって伊達家と最上家への疑いは晴れましたが、とんだ災難です。

成実にも不可解な運命が襲いかかります。

正確な時期と動機すら不明ですが、この前後に伊達家から出奔して高野山へ向かったのです。

なぜ、そんなことになったのか? 未だにナゾですが、主な諸説を考察してみますと……。

◆武勇の誉れ高い成実に、仕官の誘いもかかっていたからか?

上杉景勝は、五万石という破格の待遇で成実を誘ったとされます。

片倉景綱はこうした動きに気を病み、密かに成実復帰に手を回し始めました。

◆政宗との不和か?

成実は、政宗という主君であっても容赦なく叱り飛ばすことがありました。

合戦後、気が緩んで馬上から降りずに水を飲ませていた政宗を「だらしない!」と怒鳴りつけたことすらあるのです。

◆他の家臣と比較して、一門でありながら扱いが軽いと憤ったのか?

成実は、主君が相手でも断固として反論するところがありました。

だらしがないと叱り飛ばすくらいならまだしも、もっと本気で主君に対して反駁することもあったのです。

伊達晴宗の四男であり、石川晴光の養子となった石川昭光という人物がおります。

石川家は秀吉の奥州仕置により大名ではなくなってしまい、昭光は本家である政宗の家臣として帰参します。

政宗にとっては叔父にあたるため、伊達姓に復帰させ、客分として成実の上席に配置しました。

成実はこのことに頑として反対したのです。

成実にすれば、昭光は政宗に弓引いたことすらある人物です。年長者として上席にあることは許せましたが、本家に復帰することだけは許せませんでした。

政宗は成実の憤りを知ると素直にそれを受け入れ、謝罪。

かくして昭光は、そのまま石川と名乗ることとなったのです。

 

天下分け目で復帰を果たす

出奔した成実が、次に所属する場所は……?

決まらぬままに迎えた慶長5年(1600年)。

天下分け目となった関ヶ原の戦いが起こります。

この本戦の前に、奥羽の動きがあったことをご存知でしょうか。

「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦です。

直江兼続の「直江状」に端を発したとされる「上杉討伐」のため、東軍についた伊達家や最上家は、上杉討伐軍を準備。家康の命令をじっと待ち続けておりました。

そして家康がいよいよ奥羽へ向かい始めたその背後で、石田三成が挙兵するのです。

石田三成/wikipediaより引用

家康は急遽引き返し、奥羽の大名のみ、上杉と対決することになりました。

この「北の関ヶ原」で、伊達家にとっては嬉しい出来事が起きます。

白石城攻撃に政宗が備えていた時、石川昭光が「目通りを願う者がいる」と言ってきました。

その者の顔を見て驚く政宗。

「藤五郎ではないか!」

そうです、伊達成実です。復帰の背景には、片倉景綱の運動もありました。

成実は、上杉家や徳川家といった他家からの仕官誘いを断って来ておりました。成実が反発していた石川昭光経由で伊達家に復帰させたあたりにも、景綱の尽力を感じます。

かくして成実が復帰した伊達家は上杉家と戦い抜き、天下分け目において勝利をおさめたのでした。

 

伊達家仙台藩の基礎を築く

徳川政権下の伊達家はいかなる存在だったか?

まずは陸奥最大の大大名としてその存在感を見せ付けます。

成実は亘理領主として、伊達家臣として、政宗を支え続けることとなるのです。

成実の領土となった亘理は、海沿いの豊かな土地。

この地を代表する名物料るといえば、なんといっても「はらこ飯」でしょう。鮭の切り身とイクラをたっぷりとのせた、たまらない海鮮グルメです。

はらこ飯

政宗もことのほか好んだ味は、米と魚介類に恵まれた土地に支えられておりました。

実は亘理は、米どころでもあります。

亘理伊達氏の石高は、家中でも随一の二万三千石。「さすが政宗を支えただけあって、ナイスな土地を貰ったんだね」と思われるでしょうけど、さにあらず。

実は成実が入った当初は六千石の土地に過ぎず、その後の新田開発で石高を一気に増やしたのでした。でも、どうやって?

成実はまず亘理の治水に尽力しました。

干ばつや水害を防ぐためには水路の開拓や強化が一番。水回りがよくなれば、開発エリアも拡大して、当然ながら石高も上がります。

新田開発に力を注いだ結果が、6,000石→23,000石という飛躍的な躍進となったのでした。

江戸時代の仙台藩は、天下の米どころとして有名です。

そうなったのは、こうした成実はじめとした家臣たちの治水あってのもの。太平洋に面した亘理はじめ仙台藩領は、温暖であり米の栽培に適しています。

その一方で、立ち向かわねばならない試練がありました。

 

家光「奥羽武士の勇猛さよ、あっぱれである!」

試練とは?

勘の良い皆様でしたら、スグにご想像ついたでしょうか。

そうです、津波(地震)です。

水害との闘いは、この土地に暮らすものにとって宿命的なこと。成実は、責任感をもってこれに立ち向かったのです。

亘理には、かぎ形で細い路地が残っています。

こうした路地は、敵の侵入を考慮して成実が整備した証拠。

成実統治の影響は、今日まで残っていると言えましょう。

猛将としての存在感は、太平の世においても発揮されました。隣の最上家が改易されると、その開城に立ち会ったのです。

将軍・徳川家光の前で「人取橋の戦い」について語り、感心させたこともあります。

成実が命を賭して政宗の逃走を助けた――若き日の戦ですね。その武勇を聞いた家光は、興奮のあまり御簾をあげました。

徳川家光/wikipediaより引用

「奥羽武士の勇猛さよ、あっぱれである!」

そして、成実に恩賞を与えたほどです。

成実の人となりは、多くの家臣だけではなく政宗からも敬意を集めました。

鷹を盗んだとしてある男が、目の前で家臣に打たれていました。

成実はそれを制し、「人の命は尊いものだ。許してやれ」と、解放させたことがあったほど。

出奔時代に自分を見限った家臣に恨みを抱かず、相手を感激させたこともあります。

政宗から賜った茶器・岩城文琳は、毎日手入れを欠かさず、入手当時のまま保ち続けました。

何年も経ってから政宗がその様子を見て、感動のあまり恩賞を与えたほどです。

生真面目で、優しく、忠誠心が篤い。そうした一本気な性格が、政宗はじめ周囲の者たちを魅了し続けたのです。

正保3年(1646年)、政宗の死に遅れること十年。

むかしより稀れなる年に九つの 余るも夢のなかにこそありける

辞世を残し、成実は世を去りました。

享年79という長寿でした。

なお、成実は、女性に対しても生真面目であったようです。

正室・亘理御前(亘理重宗の長女)、継室・岩城御前(二階堂盛義の娘)の他、妻妾はおりません。

そのためもあってか世継ぎには恵まれず、政宗の九男・宗実を迎え入れ、後継者としました。

成実の死から時は流れ——明治の世になってから、彼の子孫がまたしても功績を残すこととなります。

 

「伊達市」北海道に刻まれたその名

幕末において「奥羽越列藩同盟」の盟主として戦い、敗北した仙台藩。

賊軍とされた仙台藩士は、屯田兵として北海道への移住を余儀なくされた者が多数おりました。

それは本家だけではなく、分家も同じことでした。

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困難を極めた北海道開拓において、多くの主従が苦難の中、散り散りになってしまいます。

しかし、ひときわ強い団結を保つ一団がありました。

それが成実の子孫にあたる亘理伊達家です。

いつしか彼らは、東北からの移住者として成功例にあたるとされました。彼らが開拓した土地は「伊達市」という名にまで残されたのです。

成実にとって、かつての領地である亘理町と伊達市は、現在も交流が続いております。

この二つの自治体は「ふるさと姉妹都市」の関係にあるのです。

成実の築き上げた家中の強い縁は、北海道でも名を残し、生きていったのです。

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【参考文献】
遠藤ゆり子『東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱』(→amazon
高橋充『東北の中世史5 東北近世の胎動』(→amazon
飯田勝彦『伊達政宗とその武将たち』(→amazon
河北新報社『仙台藩ものがたり』(→amazon
渡辺信夫/大石直正/難波信雄『県史 宮城県の歴史』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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