伊達家

成実いなけりゃ独眼竜の躍進もナシ? 一度は伊達家を出奔した猛将の生き様

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関ヶ原で帰参すると以前と変わらぬ働きっぷり

慶長五年(1600年)関が原の戦いに関連して東北で戦が起き始めると、片倉景綱らの説得によって伊達家へ帰参。同年7月の白石城(現・宮城県白石市)攻めに参加します。

少々余談ですが、成実と片倉景綱、そして経理関係を担当していた鬼庭綱元の重臣三人を「伊達三傑」とも呼びます。

この三人は、時期こそ異なるものの「一時期、政宗の元を出奔した(しかけた)」ことがあるという点が興味深いところです。

理由としては、景綱は若い頃に「なかなか出世できないので」、綱元は「秀吉に引き抜かれそうになって政宗に内通を疑われてキレた」という理由。

それでも皆戻ってきているのですから、政宗の人望がうかがえ……るということにしておきましょう。

関が原から二年後、慶長七年(1603年)には亘理城(わたりじょう・宮城県)と周辺の領地を拝領し、成実は「伊達家の南の守り」という立ち位置に復帰しました。

その後も政宗の長女・五郎八姫の婚礼の使者や大坂の役参戦など、重臣ならではの仕事を任されており、おおむね出奔前と同じ扱いになっています。

晩年は政宗よりも9年長生きし、二代藩主・伊達忠宗が仙台藩内での洪水対策費用を幕府から借りた際、お礼の使者として江戸城に上ったりもしました。

このとき戦話を所望されて【人取橋の戦い】の話をし、三代将軍・徳川家光にいたく気に入られたそうで。

 

猛将を脱却し、内政に長けたお殿様となる

若い頃は猛将タイプだった成実ですが、亘理に入ってからは自らの居城を「臥牛城」と名付け、地に足の着いた政治を行いました。

領内の農地・塩田開発や灌漑の充実に力を入れ、寛永二十一年(1644年)には入封時の倍の金額を稼げるようになったといいます。

領民とのエピソードは特にありませんが、今でも亘理町のマスコットキャラクター「わたりん」が成実を模しているなど、地元のお殿様として大変慕われているようです。

成実の妻子は出奔よりも前に亡くなったとされているので、血の繋がった子孫は存在しません。

そのため、政宗の九男・伊達宗実を養子に迎え、跡を継がせました。

宗実の孫・基実で一度血が途絶えましたが、その後政宗の四男・伊達宗泰の系統に移り、幕末頃には伊達家の重臣・亘理家の人になっています。

亘理家はその名の通り元々亘理を領していた家ですし、途中から稙宗の血を引いているので、稙宗の代までさかのぼれば伊達家の血統であることは変わりません。

この辺はさすが名門というか、稙宗の子沢山ぶりが功を奏したというか。

 

「特に用事はないんだけど、手紙を書いてみた」

そんなこんなで亘理伊達氏は明治時代まで続き、戊辰戦争で仙台藩が処分を受けた後は、領民とともに北海道へ渡り、開拓に励みました。

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元・亘理の住民たちが拓いた土地が、現在の北海道伊達市です。

「伊達市」は福島県にもありますが、こちらは伊達家の初代・伊達朝宗が源頼朝にもらった土地です。「伊達」を名乗るようになったのもこの地に根付いたからなんですね。

そのため、福島県伊達市は「伊達家始まりの地」、北海道伊達市は「(亘理)伊達家が新天地に移った地」ということもできます。

これまた余談ですが、全国でも珍しい同一の市名のため、郵便物の宛先を「伊達市」から書いてしまうと、誤配が起きることがあるとか。笑っていいのかどうか^^;

この両市に限らず、常に都道府県や郵便番号を書いたほうが賢明ですね。郵便局では「郵便番号が正確なら、それ以降は省略しても大丈夫」と書かれていますけれども。

成実と政宗にも、手紙に関するエピソードがあります。

江戸時代に入ってからの二人は、それまでにも増して頻繁に手紙のやり取りをしていました。お互い歳ですし、立場上、直接会いに行くことが難しくなっていたからでしょうね。

その時期の政宗から成実へ宛てた手紙に「特に用事はないんだけど、最近顔を合わせてないから手紙を書いてみた」(意訳)と書かれたものがあります。

これに対する成実の返事は伝わっていないのですが、すったもんだがあっても、やはり幼い頃からよく知ったイトコ同士……という感じで微笑ましいですね。

きっと晩年は「お互い若かったな」なんて言いながら、和やかに話す場面もあったのでしょう。

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最近はナンバー2や重臣などにもスポットが当たるようになってきましたから、成実もこれからさらに研究が進んだり、知名度が上がるかもしれませんね。

ぜひいつか、出奔の理由を解き明かしていただきたいものです。

なお、より詳細な伊達成実の生涯については以下の記事にございます。よろしければ併せてご覧ください。

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長月 七紀・記

参考】
国史大辞典
遠藤ゆりこ編集『伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)』(→amazon
伊達市_(北海道)/Wikipedia
伊達成実/Wikipedia

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