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【信長から輝宗への手紙】
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「関東を攻めるときは連携しよう」
各国さまざまな事情や思惑が蠢いていたせいか。
『信長公記』には記載がありませんが、天正二年(1574年)には信長から輝宗へ、手紙や贈り物をしたことがありました。
1年後の天正三年(1575年)【長篠の戦い】頃には、信長から輝宗へ
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「長篠の戦い」勝因は三段撃ちではなく天然の要害か|信長公記第121話
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「関東を攻めるときは連携しよう」なんて手紙まで記されています。
信長のちょっと意外な一面かもしれませんね。
もちろん荒唐無稽な話でもありません。
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というのも伊達氏は後北条氏と結び、常陸の佐竹氏に対抗しようとしていましたので、もしかしたらその辺の情報を知っていたのかもしれません。
最初は同盟者 そして家臣へと誘導
また、信長は出羽の大名・安東愛季(あんどうちかすえ)とも連絡をとっていました。
こちらは北陸周りで海路を使えるため、もともと上方との交易をしており、信長としても連絡しやすかったと思われます。
こうした状況から、信長が東北攻略に乗り出す際は、伊達氏と安東氏を足がかりとして、事を進めるつもりだったのかもしれません。
最初は同盟という形を取り、後で家臣扱いにする流れですね。
もっとも、輝宗の息子・伊達政宗の性格からすると、大反発して一悶着起きた可能性もありそうです。
秀吉には受け入れられた政宗の芝居は、信長相手でも成功したかどうか。
本能寺の変がなければ【信長vs政宗】の対面もあったのかと思うと、少しばかりワクワクしてしまいます。
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【参考】
国史大辞典
黒嶋 敏『秀吉の武威、信長の武威:天下人はいかに服属を迫るのか (中世から近世へ)』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)






