源頼朝からのお墨付きを得て会津地方の統治者となった佐原義連(さわらよしつら)。
その子孫が土着して蘆名家となり、長い間、同地方を統治してきたとは以下の記事に詳細がありますが、
東国武家にとって因縁深い会津の地 佐原義連に始まる蘆名一族と共に振り返る
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戦国時代に突入すると、野心あふれる男の出現によってその安寧は崩されます。
独眼竜こと伊達政宗です。
中央では豊臣秀吉の政権がほぼ決まり、大名同士の勝手な合戦を禁じる「惣無事令」も出しているという状況なのに、それを完全に無視したかのように会津を攻め、蘆名から奪い取る――。
なぜ政宗はそこまで執着したのか?
その行動履歴を振り返ってみましょう。
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はしゃぐ政宗「ついに会津を手に入れた!」
秀吉の影がそこまで迫っている――。
にもかかわらず、政宗は、斜陽の蘆名家とは対照的な、楽しい戦国ライフをエンジョイしていました。
その姿は、まさにノリノリ。
撫で斬り自慢書状を最上義光に送りつけたり。
浮かれて落馬骨折したり。
彼氏と激しく愛し合って、愛の証のために太ももを突いたり。
飲みすぎて二日酔いになったり。
家臣に雑な手紙を送りつけたり。
※以下は「政宗の手紙」関連記事となります
「二日酔いです・遅刻しそう・読んだら燃やして」政宗の手紙が気の毒なほど面白い件
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家臣の家に突撃訪問して遊んだり。
伊達成実から「マナーが悪い!」と怒られたり。
もう戦国の青春ここにあり!って感じですね、ハハッ。
まぁ、そんな政宗のエンジョイ青春時代の念願が会津蘆名家の撃破であり、その夢が叶ったのですから浮かれるのも無理はないでしょう。
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天正18年(1589年)の1月7日に行われた「七草連歌」。
「若菜連歌」とも呼ばれる伊達家恒例の行事で、この年の政宗は次のような句を詠んでいます。
「七種を一葉によせてつむ根芹」
「七草を一気に積んじゃったよ、ウヒャハー!」
ウキウキの様子がダダ漏れで伝わってきます。
微笑ましいほどのノーテンキですね。
しかし、戦国ファンの皆様なら、そろそろ気になられているでしょうか。
伊達家ファンの方であれば、ヤキモキする場面です。
翌年の天正18年(1590年)は【小田原征伐】が行われる年。
秀吉の天下統一事業の仕上げは刻一刻と迫っているのでした。
困り顔の義光「惣無事令を知らんの?」
秀吉が関東にやってくる頃。
それはもはや戦国時代ど真ん中の頃とは勝手が異なります。
好き勝手に暴れられる時代は終わり、外交力が切実に問われる環境になっておりました。
政宗周辺の大名――特に伯父の最上義光あたりは、ツッコミたくて仕方のないところでしょう。
「あのさ……政宗くん、惣無事令って知らんの? そういうイキリ倒したこと(蘆名討伐)をして、関白が黙っていると思っているの?」
むろん秀吉が黙っているはずがありません。
会津を追い出されて常陸にいる蘆名義広だって、実家の佐竹義重や佐竹義宣を介して、関白・豊臣秀吉に「惣無事令の違反です」と訴え出ていることでしょう。
秀吉の耳に入るのは時間の問題なのです。
奥羽の大名は誰もが皆
「どうすれば関白にコンタクトを取れるのか?」
と知恵を絞っているところでした。
好例が津軽為信や蠣崎慶広でしょう。
関白への取りなしを電光石火で成功させたがために、無事、大名としての地位を得ました。
もっとも津軽はこの一件で南部とは犬猿の仲となっておりますが、出し抜いた方としては「合戦? もう外交なんだよ、アホか」という時代です。
このとき、一番胃がキリキリしていたのは、最上義光でしょう。
彼は伊達家の監視任務を買って出ています。
義光が陰険な性格だからなのか?
そんな単純なものではないでしょう。なんせ伊達家は最愛の妹の嫁ぎ先ではありますし、義光は義弟・輝宗とはなかなか相性がよかった。政宗だって、なんだかんだで血の繋がった甥っ子。
何かあれば首根っこつかんででも土下座させたかったのかもしれません。
むろん政宗もバカではありません。
外交において無策ではなく、コンタクトもしておりました。
惣無事令の発動で木っ端微塵
それでも政宗は、空気を読めなかった……というより読みたくなかったのでしょう。
蘆名を潰し会津をゲット。
その誘惑に負けてしまったのかもしれません。
かくして政宗のウキウキ会津ライフは、惣無事令の発動で木っ端微塵になります。
おまけに小田原征伐前夜には、
【蘆名家当主に据えるはずだった弟・政道小次郎を殺害した】
ともされているのです。
背景にあった義姫による政宗毒殺未遂も、現在は否定されております。
確かなことがあるとすれば、政宗の目論見通り小次郎が蘆名家当主となっていれば、それらの悲劇は起きなかったということでしょうか。
話をここで完結としてもよいところですが、無駄に粘着質な政宗は、会津にこだわりがあったようで……。
もう少しだけお付き合いください。
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