あと十年、あるいは二十年早く生まれていたら、天下を取れていた――。
そんな風に囁かれたりする東北の英雄・伊達政宗。
歴史ロマン溢れるこの問い掛けは、戦国ファンにはおなじみですが、現実的にはまずありえません。
当時の史料を見れば、政宗の想定する領土拡張範囲はせいぜい奥州。
関東だって「もしかしたら行けるかも……」程度の認識です。
東北の農業生産力は低く、人口も限られており、天下ははるか遠くにある状態でした。
降雪のため冬は進軍できませんから、その時点で厳しいのです。
では、なぜこんな話が広まったのか?
おそらく、戦国時代を知らない徳川家光相手に政宗本人が吹聴していた話あたりが元ネタになったのでしょう。
「なるほど、政宗のビッグマウスのせいだったか。後世の人々まで、ころりと騙されおって」
と言えば、確かにその通りかもしれませんが、そんな与太話が江戸時代を通じて現代にまで残った――という事実については、見逃せないところであります。
いくら話の種として優れていても、何らかの燃料が投下されないと、途中で火は消えてしまうものです。
それでも現代まで残ったのは、なぜか?
背景に大名の意地や見栄がありました。
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最強の外様大名は誰だ?(加賀百万石除く)
江戸時代、仙台藩は地方の大藩になりました。
江戸や近畿地方以外から睨みを利かせる、そんな存在と言いましょうか。
農業生産性も向上し、次第に米どころとしても定着。
都市部へお米を送り出す、重要な生産地にもなりました。
そんな仙台藩のライバルが、南の薩摩藩です。
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外様大名トップは誰だ――。
そう考えると、加賀百万石には敵わない。けれども薩摩には負けられない。
日本の北と南にある大名同士が、ライバルになる。
江戸城で大名同士が顔を合わせるゆえに、対抗意識が息づいておりました。
これはメンツを重んじる武士ならではの、逃れられない性質とも言えましょう。
「幸村の血を引く者たちをゲットだぜ!」
では、大名たちの対抗意識はどんな場面で発揮されたか?
いくつか項目を挙げてみます。
具体例を見てみますと……。
大坂の陣後、伊達家では片倉重綱を通じて真田信繁(真田幸村)の子供たちが保護されました。
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勇壮なる信繁の血を残すことは武家にとっての誉れ。
そんな美談にもなりますが、単純にそれだけとも言えない。
「俺んちで、あの幸村の血を引く者たちをゲットだぜ!」
レアポケモンやカードをゲットする感覚ですね。
その真田本家では、真田信之の後にちょっとしたお家騒動があり、石高を盛ったりする事例もありました。
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最も盛りやすいのは、戦国時代における藩祖のエピソードや合戦武勇伝ですが、これは伊達氏と島津氏に限ったことではなく、全国諸大名たちの功績が同様に飾られておりますね。
各家や武将を扱った『軍記物語』などがわかりやすい一例でしょうか。
本来なら史実の戦国武将だけでも十分に魅力的で、ありのままで素晴らしいものです。
でも、それだけでは終わらなかった。
これを手放しで喜んでいられないのが、それぞれの地の領民たちでした。
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