伊達成実

伊達成実/wikipediaより引用

伊達家

伊達成実いなけりゃ独眼竜の躍進もナシ? 一度は伊達家を出奔した猛将の生涯

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佐竹勢が、兵を退き始めたのです。

伊達勢からすれば奇跡的な展開。

佐竹にとっては、別の事情がありました。

佐竹の国内で不穏な動きがあり、撤退せざるを得なかったのです。

もしもこの幸運がなければ、政宗も成実も、若い命を散らしていたかもしれません。

まさに危機一髪でした。

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奥羽を席巻する政宗の元で

九死に一生を得た政宗。

これを気にしてしおらしくなったのか?と言いますと、そんなことはありません。

奥州を武力で制圧すべく、強気の進撃を続けます。その傍らで見守り続けたのが、成実でした。

政宗にとっての悲願は、会津の名門・蘆名氏を攻略することです。

会津とは、奥州の中でも広大な盆地が広がり他国へと繋がる要衝であり、ここを抑えねば奥州を制覇したとは言えない、そんな場所でした。

当然ながら蘆名家も強く、伊達家といえども歯が立たない――状況は、政宗の時代に変わりつつありました。

天正12年(1584年)第18代当主であった蘆名盛隆が、23歳という若さで家臣によって殺害されてしまったのです。

後継者を擁立しようにも、乳幼児しかいない国がまとまりにくいのは説明するまでもないでしょう。こんな時、息の掛かった者を後継者として擁立させ、力を伸ばすことを伊達家はよく行っておりました。

例えば、最上義光の父・義守もこの例です。

家督相続時、まだ幼児に過ぎなかった義守は、養母として伊達尚宗の娘が後見についておりました。そのせいか、義守は生涯伊達家に対して頭が上がらないところがあったのです。

そして、こうした姿勢が彼の子である義光と一致せず、父子は深刻な対立に陥ったこともあります(「天正最上の乱」)。

事態を警戒した蘆名家では、後継者に佐竹義重の子である義広を選びました。

 

「摺上原の戦い」が火蓋を切る

弟の小次郎を据えたかった政宗としては、許しがたい選択。

もしも蘆名家が小次郎を当主に据えていたならば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

こうなっては、もはや政宗にとって、蘆名家は滅ぼすべきものでしかありません。

政宗は大崎攻めで手こずり、伯父である最上義光と一触即発となって、母・義姫のとりなしで和解に至る等、様々な事情がありました。

そうした事情が落ち着いた天正17年(1589年)。政宗にとって、最大の勝利とも言える【摺上原の戦い】が火蓋を切ったのです。

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名峰磐梯山と猪苗代湖のすぐそば、摺上原に布陣した伊達勢。成実は、政宗、片倉景綱に次ぐ三番手として出撃しました。

当初は、会津の地形をよく知り、数でも勝る蘆名勢が優勢でした。

それが風向きの変化によって、逆転の好機が到来。もうもうと煙る中、伊達勢は崩れた蘆名勢を追い詰め、大勝利をおさめたのです。

蘆名勢の死者は、2千に迫ったとも言われております。事実、同家を滅亡に導く大勝利でした。

この戦いにおいても、成実は伊達家臣団の中核を担い、存在感を見せ付けております。

このとき、勝利を収めた伊達勢が歌っていたのが、『さんさ時雨』という民謡なのだとか。

会津地方では不吉な歌としてタブーであったとか、蘆名氏の頃から歌われていたのであるとか、諸説あります。この歌を、成実が作詞したという逸話もあります。

真実かどうかははっきりしないが、それほど大勝利に酔いしれたということでしょう。

しかし、この「摺上原の戦い」は合戦に勝って、勝負に負けたようなものであったかもしれません。

天下を統一しつつあった関白・豊臣秀吉は、政宗にこう突きつけ、釈明を求めて来たのです。

【摺上原の戦い】は、惣無事令の違反である――。

 

「干城」として主君を守る

天正18年(1590年)。

豊臣秀吉が関白として天下統一を進めてゆきます。その目は、奥羽にも向けられておりました。

この動きをどう見るか?

「これぞ好機! 天下人に私こそが大名だと認めてもらおう」

そう考えた大名もおります。

伊達政宗としばしば対立してきた最上義光がそうです。

最上義光像

義光は「関白が認めた出羽の支配者はこの義光。皆従うように」というふうに喧伝を始めました。

他に、安東実季の配下であった蠣崎慶広は、抜け目なく秀吉に接触、蝦夷地支配の大名という特異な地位を認められます。

一方で政宗にとっては、大いなる挫折となりました。

彼が天下を狙っていたとは思えませんが、奥州の要である会津を返す羽目になるのですから、たまったものではありません。

関東の北条氏は、まだ秀吉に抵抗しています。力を合わせれば、秀吉の天下統一に対抗できるかもしれない――そんな思いもよぎります。

ちなみに彼の父である伊達輝宗の時代。もしも西国が攻めて来たら、陸奥と出羽で力を合わせて戦おうという盟約が、隣国・最上義光との間にありました。

しかし、政宗の代になると両者は決裂し、このときの義光は伊達政宗の監視役を秀吉に対して買って出ていたほどです。

政宗も、外交を無視していたわけではありません。

秀吉に使者を送り、陸奥の守りは任せて欲しいとアピールしてはいるのです。

しかし、秀吉からすればそんなものは無駄なこと。

「言いたいことがあるならば、本人が来なさいよ。北条攻めの小田原に集合な」

小田原征伐の始まりでした。

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成実は秀吉の意見など知らんこっちゃ

こうなると、政宗も家臣の意見を聞くほかありません。

片倉景綱や原田左馬助宗時らは、もはや小田原に向かうのみ――と意見を述べ、小田原に向かうと決めたのでした。

弟・小次郎の死といった混乱もあったものの、政宗は小田原に向けて出発します。

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成実だけは「徹底抗戦だ!」と反対したと言います。

そのためか、小田原には向かうことなく、自領で留守を守ることとなったのです。

これこそ、秀吉相手に抗戦すべきであると息巻いた猛将には、うってつけの役目です。

政宗の留守中に隙を狙おうとしても、そんなことを成実は許しません。

伊達成実/wikipediaより引用

政宗は、成実を「干城」と評したとされております。

主君のため、命を賭して城となり、盾となる、そんな忠臣のことです。

さらに成実の兜の前立て(兜の飾り)は、毛虫でした。

決して後退しない習性にあやかったものです。

その前立て通り、彼は決して退くことなく、主君である政宗を支え続けたのです。そして……。

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