伊達成実

伊達成実/wikipediaより引用

伊達家

伊達成実いなけりゃ独眼竜の躍進もナシ? 一度は伊達家を出奔した猛将の生涯

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伊達成実
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試練のとき 主君と袂を分かつ

豊臣政権下での成実は、

・葛西大崎一揆の鎮圧

・文禄の役

といった戦いに参戦を果たし、活躍を続けました。

政宗の側にいることと、伊達領を守ることを、交互につとめていたのです。

政宗は京都で、茶の湯や他大名との交流を楽しんでおりました。

奥羽出身の大名の中には、周囲から見下されることを気に病んでしまう者もおりましたが、さすが名門出身の政宗は違います。馬鹿にされてなるものかと、精力的に活動していたのです。

そんな政宗に、文禄4年(1595年)、大きな試練が襲いかかります。

関白・豊臣秀次切腹に巻き込まれ、豊臣政権への謀叛を疑われたのです。彼にとって従妹にあたる最上義光の二女・駒姫は処刑すらされております。

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このとき【伊達家と最上家が天下に対して反逆を企てている】という、荒唐無稽な立て札が出回りました。

あまりにも無謀な内容であるとして、かえって伊達家と最上家への疑いは晴れましたが、とんだ災難です。

成実にも不可解な運命が襲いかかります。

正確な時期と動機すら不明ですが、この前後に伊達家から出奔して高野山へ向かったのです。

なぜ、そんなことになったのか? 未だにナゾですが、主な諸説を考察してみますと……。

◆武勇の誉れ高い成実に、仕官の誘いもかかっていたからか?

上杉景勝は、五万石という破格の待遇で成実を誘ったとされます。

片倉景綱はこうした動きに気を病み、密かに成実復帰に手を回し始めました。

◆政宗との不和か?

成実は、政宗という主君であっても容赦なく叱り飛ばすことがありました。

合戦後、気が緩んで馬上から降りずに水を飲ませていた政宗を「だらしない!」と怒鳴りつけたことすらあるのです。

◆他の家臣と比較して、一門であいながら扱いが軽いと憤ったのか?

成実は、主君が相手でも断固として反論するところがありました。

だらしがないと叱り飛ばすくらいならまだしも、もっと本気で主君に対して反駁することもあったのです。

伊達晴宗の四男であり、石川晴光の養子となった石川昭光という人物がおります。

石川家は秀吉の奥州仕置により大名ではなくなってしまい、昭光は本家である政宗の家臣として帰参します。

政宗にとっては叔父にあたるため、伊達姓に復帰させ、客分として成実の上席に配置しました。

成実はこのことに頑として反対したのです。

成実にすれば、昭光は政宗に弓引いたことすらある人物です。年長者として上席にあることは許せましたが、本家に復帰することだけは許せませんでした。

政宗は成実の憤りを知ると素直にそれを受け入れ、謝罪。

かくして昭光は、そのまま石川と名乗ることとなったのです。

 

天下分け目で復帰を果たす

出奔した成実が、次に所属する場所は……?

決まらぬままに迎えた慶長5年(1600年)。

天下分け目となった「関ヶ原の戦い」が起こります。

この本戦の前に、奥羽の動きがあったことをご存知でしょうか。

北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦です。

直江兼続の「直江状」に端を発したとされる「上杉討伐」のため、東軍についた伊達家や最上家は、上杉討伐軍を準備。家康の命令をじっと待ち続けておりました。

そして家康がいよいよ奥羽へ向かい始めたその背後で、石田三成が挙兵するのです。

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家康は急遽引き返し、奥羽の大名のみ、上杉と対決することになりました。

この「北の関ヶ原」で、伊達家にとっては嬉しい出来事が起きます。

白石城攻撃に政宗が備えていた時、石川昭光が「目通りを願う者がいる」と言ってきました。

その者の顔を見て驚く政宗。

「藤五郎ではないか!」

そうです、伊達成実です。復帰の背景には、片倉景綱の運動もありました。

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成実は、上杉家や徳川家といった他家からの仕官誘いを断って来ておりました。成実が反発していた石川昭光経由で伊達家に復帰させたあたりにも、景綱の尽力を感じます。

かくして成実が復帰した伊達家は上杉家と戦い抜き、天下分け目において勝利をおさめたのでした。

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伊達家仙台藩の基礎を築く

徳川政権下の伊達家はいかなる存在だったか?

まずは陸奥最大の大大名としてその存在感を見せ付けます。成実は亘理領主として、伊達家臣として、政宗を支え続けることとなるのです。

成実の領土となった亘理は、海沿いの豊かな土地です。

この地を代表する名物料るといえば、なんといっても「はらこ飯」。鮭の切り身とイクラをたっぷりとのせた、たまらない海鮮グルメです。

政宗もことのほか好んだ味は、米と魚介類に恵まれた土地に支えられておりました。

実は亘理は、米どころでもあります。

亘理伊達氏の石高は、家中でも随一の二万三千石。「さすが政宗を支えただけあって、ナイスな土地を貰ったんだね」と思われるでしょうけど、さにあらず。

実は成実が入った当初は六千石の土地に過ぎず、その後の新田開発で石高を一気に増やしたのでした。でも、どうやって?

成実はまず亘理の治水に尽力しました。

干ばつや水害を防ぐためには水路の開拓や強化が一番。水回りがよくなれば、開発エリアも拡大して、当然ながら石高も上がります。

新田開発に力を注いだ結果が、6,000石→23,000石という飛躍的な躍進となったのでした。

江戸時代の仙台藩は、天下の米どころとして有名です。

そうなったのは、こうした成実はじめとした家臣たちの治水あってのもの。太平洋に面した亘理はじめ仙台藩領は、温暖であり米の栽培に適しています。

その一方で、立ち向かわねばならない試練がありました。

 

家光「奥羽武士の勇猛さよ、あっぱれである!」

試練とは?

勘の良い皆様でしたら、スグにご想像ついたでしょうか。

そうです、津波(地震)です。

水害との闘いは、この土地に暮らすものにとって宿命的なこと。成実は、責任感をもってこれに立ち向かったのです。

亘理には、かぎ形で細い路地が残っています。

こうした路地は、敵の侵入を考慮して成実が整備した証拠。成実統治の影響は、今日まで残っていると言えましょう。

猛将としての存在感は、太平の世においても発揮されました。隣の最上家が改易されると、その開城に立ち会ったのです。

最上義光が居城とした山形城本丸一文字門

将軍・徳川家光の前で「人取橋の戦い」について語り、感心させたこともあります。

成実が命を賭して政宗の逃走を助けた――若き日の戦ですね。その武勇を聞いた家光は、興奮のあまり御簾をあげました。

「奥羽武士の勇猛さよ、あっぱれである!」

そして、成実に恩賞を与えたほどです。

成実の人となりは、多くの家臣だけではなく政宗からも敬意を集めました。

鷹を盗んだとしてある男が、目の前で家臣に打たれていました。

成実はそれを制し、「人の命は尊いものだ。許してやれ」と、解放させたことがあったほど。

出奔時代に自分を見限った家臣に恨みを抱かず、相手を感激させたこともあります。

政宗から賜った茶器・岩城文琳は、毎日手入れを欠かさず、入手当時のまま保ち続けました。

何年も経ってから政宗がその様子を見て、感動のあまり恩賞を与えたほどです。

生真面目で、優しく、忠誠心が篤い。そうした一本気な性格が、政宗はじめ周囲の者たちを魅了し続けたのです。

正保3年(1646年)、政宗の死に遅れること十年。

むかしより稀れなる年に九つの 余るも夢のなかにこそありける

辞世を残し、成実は世を去りました。

享年79という長寿でした。

なお、成実は、女性に対しても生真面目であったようです。

正室・亘理御前(亘理重宗の長女)、継室・岩城御前(二階堂盛義の娘)の他、妻妾はおりません。

そのためもあってか世継ぎには恵まれず、政宗の九男・宗実を迎え入れ、後継者としました。

成実の死から時は流れ——明治の世になってから、彼の子孫がまたしても功績を残すこととなります。

 

「伊達市」北海道に刻まれたその名

幕末において「奥羽越列藩同盟」の盟主として戦い、敗北した仙台藩。

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賊軍とされた仙台藩士は、屯田兵として北海道への移住を余儀なくされた者が多数おりました。

それは本家だけではなく、分家も同じことでした。

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困難を極めた北海道開拓において、多くの主従が苦難の中、散り散りになってしまいます。

しかし、ひときわ強い団結を保つ一団がありました。

それが成実の子孫にあたる亘理伊達家です。

いつしか彼らは、東北からの移住者として成功例にあたるとされました。彼らが開拓した土地は「伊達市」という名にまで残されたのです。

成実にとって、かつての領地である亘理町と伊達市は、現在も交流が続いております。

この二つの自治体は「ふるさと姉妹都市」の関係にあるのです。

成実の築き上げた家中の強い縁は、北海道でも名を残し、生きていったのです。

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文:小檜山青→note

【参考文献】
『東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱』遠藤ゆり子編(→amazon
『東北の中世史5 東北近世の胎動』高橋充編(→amazon
伊達政宗とその武将たち』飯田勝彦(→amazon
『仙台藩ものがたり』河北新報社(→amazon
『県史 宮城県の歴史』(→amazon

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