伊達秀宗

伊達家

政宗長男・伊達秀宗の切なくてイイ話|もう一つの伊達家が四国に誕生した理由

2025/06/06

「親の心子知らず」とよく言われますが、その逆もまた然り。

特に豊臣秀吉が天下人になってからは「妻と子供をワシの手元に差し出さんかい!」という人質の方針が固められ、戦国大名の子供たちは父親とロクに顔も合わせず育っていきました。

これでは親子の愛情もすれ違いになりがちで、本日はそんな戦国~江戸期のホームドラマなお話です。

明暦四年(1658年)6月8日、宇和島藩主の伊達秀宗が亡くなりました。

名字からお察しの通り、あの伊達政宗の息子(長庶子)です。

伊達政宗/wikipediaより引用

どこの家でも同じ話なのですが【長男かつ側室生まれ=長庶子】というのは立場が非常に難しいもの。

ヘタに野心を持ったり家臣に担がれれば成敗されかねないし、かといって沈黙を突き通すには自身のプライドや周囲の状況が許してくれません。

しかも伊達秀宗の場合、生まれたのが天正十九年(1591年)という秀吉の死&関ヶ原ちょい前のことなので並々ならぬ苦労もしています。

早速その生涯を見てまいりましょう。

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秀吉のむちゃぶり「4歳の息子に伊達家を譲れ」

伊達秀宗の父・伊達政宗には、長いこと子供が生まれませんでした。

正室の愛姫(めごひめ)との婚姻は早かったものの、戦やらなんやらで留守が多かったからだと思われます。

愛姫(陽徳院)/wikipediaより引用

そこに側室とはいえ男の子が生まれたのですから、喜びようはハンパではありませんでした。

家臣達からも「御曹司様」と呼ばれ、後継者間違いナシと見られていたのです。

しかし、当時は豊臣秀吉が耄碌(もうろく)し始めた頃。

真実は未だ不明ですが、豊臣秀次切腹事件(1595年)など軽挙妄動が目立ってきたあたりです(朝鮮出兵が1592年から)。

政宗は「秀次とそこそこ付き合いあったから」というとばっちりで「隠居して秀宗(※当時4歳)に家督を譲れ!」なんてムチャ振りをされていました。

伊達家は鎌倉時代以来の名家。

それを幼児に継がせるのはどうよ?ということで、徳川家康が間に入って何とかしてくれたのですが、このあたりから秀宗の人生にいろいろケチがついてまわります。

まずは「秀頼と歳の近い小姓が欲しいから、秀宗を上方へよこせ」というもっともらしい理由で人質になってしまいます。

このときわずか5歳で元服し、”秀”の字を秀吉からもらいました。手垢付きすぎにも程がある。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

秀吉が死んだら死んだで【関ヶ原の戦い】でも大坂方の人質にされ、次は江戸で人質になり……と、秀宗は幼少期のほとんどを人質としてあっちこっちで不快な思いをしながら耐えて暮らします。

他の大名も似たようなものですが、この後の経緯を考えると秀宗の場合はことさら哀れに思えてきます。

 


本妻に弟が生まれちゃって…

ここにきて正妻の愛姫に男の子(伊達忠宗)が生まれたのです。

秀宗からすれば腹違いの弟であり、世間的には正式な後継者ということになります。

伊達忠宗/Wikipediaより引用

秀宗も井伊直政の娘を正室にもらっているので、いきなり冷遇されたわけではないんですが、この腹違いの弟が元服の際、秀忠の”忠”の字をもらって忠宗と名乗ったことで、秀宗が家督を継ぐ可能性は消えてしまいました。

”秀”に秀吉の影を感じ、恨みに思った可能性は高そうです。

政宗も、さすがに長男の不満に全く気付かないようなバカ親ではありません。

「アイツにもいろいろ苦労させたし、何とかしてやらんとなー」ということで、秀宗の顔が立つ方法を考えはじめます。

とはいえ、すぐにいい手は浮かばず、ビミョーな空気の中、親子揃って大坂冬の陣に参戦しました。

これは余談ながら、秀宗は、政宗の子供の中では唯一実戦経験があるということになります。

 

もらった新領地 それが愛媛県の宇和島市

伊達軍は冬の陣では特筆すべき功績を挙げておりません。

お歳暮代わりにいくらか領地をもらえることになりました。

ここでピンと来た政宗!

「いただいた土地のうち、伊予宇和島(現・愛媛県宇和島市)を息子にやりたいんですが」

徳川秀忠にそう申し出ると許可が下り、さらには「秀宗は真面目だからオマケしてやろう」ということで、分家扱いではなく大名扱いにしてくれます。

親心か、世間体からか。

政宗も「ならば頼れる家臣をつけてやらんとな」と張り切り、選りすぐった人物とさらにお世話係や兵卒合わせて1,200人をつけ、長男を送り出してやりました。

しかし、この家臣団が火種になってお家騒動が起きてしまうのです。

 

カリスマ父から離れて自由になったのにウザイお目付け役が

普通、お家騒動って後継者問題から発展することが多いですよね。

しかしこのときは【家臣vs家臣】の対立で、主君の家に火がつくという誰得な展開でした。

なんと、父親が付けたお目付け役の重臣が殺されてしまったのです。

しかも大名になったばかりの秀宗。

【報告・連絡・相談】のいわゆる【ほうれんそう】があまりよくわかっていなかったのか無視したのか、死人が出てるのに幕府にも父親にもこれを知らせませんでした。

当然、政宗はブチキレて

「あいつもう勘当しますんで、領地を取り上げていただいて結構です!!」

と幕府に申し入れてしまいます。

まぁ、ちょっと落ち着こーぜ、トーチャン。

ここで運よく仲裁が入りました。

ときの老中・土井利勝です。

土井利勝/wikipediaより引用

「まあまあ二人とも落ち着きなさいよ。言いたいこと溜まってるからこうなったんでしょ? 一回顔を合わせて話せばわかるって」(※イメージです)

そう諭された親子は頭を冷やし、助言通りに直接話し合うことにしました。

 


息子の怒り爆発! それを受け止める父・政宗

秀宗は、これまで父に抱いていた不満を全部ぶちまけます。

ずっと人質生活に耐えてきたのに家督を継がせてもらえなかったこと。

独立したのに家臣の一部が政宗の言いなりで秀宗にケチをつけてくることなど。

「はっきり言って恨んでます」と伝えたのです。

ドラマだったらここで刃傷沙汰になってもおかしくなさそうな展開ですが、そこは秀吉や家康の嫌がらせをやり過ごしてきた(たまに悪戯もした)政宗ですから、子供に不満をぶつけられたからといってキレることはありません。

「そりゃそうだよな。トーチャンも悪かったよ(´・ω・`)」(※イメージです)

ということで、この親子ゲンカは無事丸く収まります。

その後スッキリした秀宗は藩政に力を注ぎ、名君と称えられるようになりました。

幕末の宇和島藩主(伊達宗城・むねなり)が有能でよく知られるため、

伊達宗城/wikipediaより引用

どうしてもそっちの方が目立ってしまいますが、政宗譲りの肝の据わりようや、年貢制度の整備などの働き振りが伝えられています。

 

父との手紙で和歌の相談

ともかく話し合いがよかったのでしょう。

政宗とは、以前よりも率直な手紙をやり取りできるようになったようです。

特に和歌に関するものが多く、「和歌はある程度早く詠めないと、人前で恥をかくぞ」とか「この前の歌は良かった。ここをこうしたらもっと良くなるぞ」とか、和やかな雰囲気が漂っています。

とはいえやはり支藩・分家扱いは本意ではなかったようで。

政宗の死後・伊達忠宗の代には「家光の御前に出るとき、忠宗の上座に座った」なんてエピソードも残ってたりするんですが。

これが原因でトラブルになった記録もないので、おそらく忠宗も「兄上はいろいろあったから仕方ない」と思っていたんでしょうね。

忠宗は忠宗で、父親が隠居しないまま危篤になっちゃってハラハラしたり、凄まじく苦労してますが。こちらもエエ人や。

伊達政宗(左)と伊達忠宗/wikipediaより引用

 


愛媛の郷土料理「じゃこ天」に秘められた親子の思い

ところで愛媛県には「じゃこ天」という郷土料理があります。

魚の頭と内臓を取り、皮・骨ごとすり潰して形を整え、油で揚げたものです。

日本各地にもありますが、愛媛のそれは「初代藩主・秀宗が仙台を偲んで作らせた」といわれています。

上記の通り秀宗の前半生はほとんど人質でしたし、それが終わって間もなく宇和島に来ていますので、仙台に行ったことがあるかどうかはアヤシイ=こじつけの予感大ですが。

でも、そういうこじつけができるということは、秀宗が父親に似て料理好きだったか(政宗は家臣に料理をふるまったことでも知られます)、食にある程度うるさかったかのどっちか、あるいは両方だった可能性がありますよね。

そして少なくとも、存命中は領民から慕われていたのではないでしょうか。

宇和島城

上記の上座云々の件といい、この辺を見ると「やっぱり似たもの親子じゃんw」と微笑ましい気分になります。

もっと早く腹を割って話せていれば、また違った関係になっていたんでしょうねぇ。

じゃこ天は、地元以外でも、新橋にある愛媛・香川のアンテナショップで食べられるそうなので、お近くの方はお試しになるのもいいかもしれません。

私もそのうち行ってみたいと思います。

あー、でも、鯛めし(こっちも宇和島名物)と迷いますね、じゅるるるるる。

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【参考】
佐藤憲一『素顔の伊達政宗~「筆まめ」戦国大名の生き様 (歴史新書)』(→amazon
小和田哲男『戦国武将の手紙を読む―浮かびあがる人間模様 (中公新書)』(→amazon
伊達秀宗/wikipedia
じゃこ天/wikipedia
せとうち旬彩館(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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