支倉常長

支倉常長像(左がクロード・デリュエ作で右がアルキータ・リッチ作)/wikipediaより引用

伊達家

支倉常長~政宗の命令で渡欧しながら帰国後はキリスト教禁止の悲劇

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また、当時日本にいる政宗がヨーロッパの最新情勢を知る手立てはありません。

ですので「エスパーニャは本国から遠く離れたところに広大な領地を持ち、日本の近くにあるフィリピンまで支配下に置いている強大な国だ。うまくやって手を組めれば、徳川をひっくり返すこともできるかもしれない」と思っても仕方のないことでしょう。

古くから「遠交近攻」という戦略もありますし、実現性はあまりに厳しいとしても着眼点自体は面白いですよね。

大河ドラマ『独眼竜政宗』の原作である山岡荘八先生の小説「伊達政宗」では、政宗と家康の間で

「政宗がエスパーニャ、幕府がイギリスと付き合うことで、カトリック・プロテスタントどちらとも戦争にならないようにしよう」

という駆け引きになっていました。こっちでも面白そうです。

 

一度目は嵐で座礁 二度目に何とかメキシコへ

政宗の狙いはさておき、ともかく常長としては大役を無事に果たさねばなりません。

真の狙いを知らされてたかどうかもアヤシイですし、そもそも無事にヨーロッパにたどり着けるか、そして行きて帰ってこられるかもわからないような旅であります。

慶長十七年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号に乗り、ソテロとともに浦賀より出航しました。

が、暴風に遭って座礁・遭難したため、なんと仙台へトンボ返りすることになります。これ、どうにもバツが悪く感じたでしょうね……。

二回目の出港は慶長十八年9月(1613年10月)、現在の宮城県石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号に乗ってのことでした。

船は、石巻・月ノ浦から出ておりますが、建造期間が短いため、一からではなくサン・セバスチャン号を修理した説もあるとか。

ちなみに現在、サン・ファン・バウティスタ号を復元したものが石巻市に展示されています。

以前は中に入れたそうですが、2017年現在では老朽化のため立入禁止だとか。まあ、こういうものを安全に保存するのはいろいろと大変ですからね……。

常長らの一行はまず、ヌエバ・エスパーニャ副王領のアカプルコ(現在のメキシコ・ゲレロ州)へ向かいました。

まだパナマ運河のない時代なので、一度上陸して陸路で大西洋側のベラクルス(同国ベラクルス州)に行かないと、大西洋を渡る船に乗れなかったのです。

常長一行は無事大西洋を渡った後、慶長二十年(1615年)の年明けにスペイン国王フェリペ3世に謁見。

その後、スペインから陸路でローマに向かい、元和元年9月(1615年11月)にはローマ教皇パウルス5世との謁見も果たしています。

イタリアで描かれた支倉常長像/wikipediaより引用

ローマ教皇に謁見できたイタリアでは、ローマ市民からも「入市式」が行われるなど何かと破格の待遇を受けています。

ラッパ隊と貴族に先導された支倉使節団一行は白馬に騎乗。街中をパレードすると沿道の市民から歓声が上がったとされます。

支倉常長はローマ教皇から市民権も与えられ、それだけでなく貴族の位まで贈られました。実は天正遣欧少年使節団も市民権を貰ってますが、さすがに貴族になったのは初のことです。

とはいえ主君・政宗の目的はもちろんそんなことではありません。通商を行うため、帰途でもう一度マドリードに行き、フェリペ3世と交渉しました。

しかし、既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、それがヨーロッパ側にも知られていたため、通商交渉は失敗に終わるのです。

 

旅先で定住する者もいた

常長の一行は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和六年(1620年)に帰国しています。

といっても、旅の先々で地元の女性といい感じの仲になり、移住した人もいたそうです。

スペインで「ハポン(=日本)」という姓を持つ人は、そういった移住者の末裔だとされていますね。

まあ、遣欧使節は常長たちだけではありませんし、学術的にはまだ断定はできないそうですが。

でも、そういうことを誇らしく思ってくれている人がいる――というのはちょっと嬉しいですね。

常長が帰国した頃には、日本国内で本格的にキリスト教が禁じられていました。

西洋に行って帰ってきたキリシタンの家臣を、政宗も高く評価することはできず、常長はそのまま帰国の二年後に亡くなっています。

政宗より四歳年下で、十四年も早く亡くなっている……というのが何とも切ないところです。

サン・ファン・バウティスタ号

復元されたサン・ファン・バウティスタ号/wikipediaより引用

 

支倉家はどうなった?

その後、支倉家はどうなったのか?

というと、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて一時断絶してしまいます。

ヨーロッパまで命を賭した末に断絶とはあまりに切ないですが、やはり温情はあったのでしょうか、御家は比較的早く再興され、血筋は絶えずに済んでいます。

十一代目から現在の当主の方に至るまで、仙台にお住まいだそうですよ。

現在では元大名家でも旧領に住んでいる家は多くはありませんが、伊達家はその数少ない例外ですね。

「普段は東京に住んでいて、時々地元に帰る」という家もちょくちょくあるようですが。

常長らが持ち帰った文書や絵などは「慶長遣欧使節関係資料」として、仙台市博物館に所蔵されています。

2001年には国宝に指定されて話題になりました。

その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものと考えられています。

本当は常長の自筆によるヨーロッパ滞在中の日記があったそうなのですが、文化九年(1812年)以降散逸してしまったのだとか。

この頃の仙台藩主は十代・斉宗(なりむね)で、彼は生まれつき病弱でしたから、家中で何かしら混乱があったのかもしれません。公文書を”うっかり”処分なんて現代でも珍しくなかったりで……。

そんなわけで、元々の目的は果たせませんでしたが、常長の残したもの・持ち帰ったものは当時を伝える貴重な史料となって今に伝えております。

草葉の陰で「俺、いい仕事できたかな」と、はにかんでいるかもしれませんね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
平川新『戦国日本と大航海時代 - 秀吉・家康・政宗の外交戦略 (中公新書)』(→amazon
支倉常長/wikipedia
コリア・デル・リオ/wikipedia

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