慶長遣欧使節

復元されたサン・ファン・バウティスタ号と支倉常長/wikipediaより引用

伊達家

なぜ政宗は慶長遣欧使節を派遣した?帰国後の常長はどんな立場に?

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「幕府がやらないなら俺がやります!」

関ヶ原の戦い後、江戸幕府の基礎固めに奔走する家康。

そんな家康は、キリシタンは正直なところ認めたくはなく、気持ちは揺らいでいました。

というのも、スペインはメキシコの鉱山において水銀アマルガム法という製錬技術を使用しており、家康としてはこれを手に入れたかったわけです。

家康は通商のため、スペイン領メキシコに船を送ることにします。

ところが、スペイン側としては技術のかわりに布教させろ、と条件をつけてくるわけです。

両者は何とか折り合いをつけますが、航海が失敗したこともあり、だんだんとやる気を失います。

家康にはプロテスタント国であるイギリスやオランダも接近し始めています。

彼らは「カトリックを信じているろくでもない国とつきあわないほうがいいですよ。うちなら宗教抜きで貿易だけやりますよ」と持ちかけるわけです。

そんな中、果敢に挙手したのが政宗。

「はい! 幕府がやらないなら俺がやります! ハイ! ハイ!」

いかにも政宗の性格的にありそうな話で、その背後にはソテロがいました。

このソテロという男もなかなか曲者です。

布教に熱心なのはよいものの、そのせいか「話を盛る」傾向がありました。イエズス会にリードを許したフランシスコ会所属という焦りもあったのかもしれません。

政宗が乗り気になったのは、ソテロがビッグな話を吹き込んだからではないでしょうか。

 

月ノ浦から出航

ソテロは名門貴族の家に生まれ、サラマンカ大学で神学を学んだエリート聖職者。熱意と才知に溢れ、弁が立つ人物でした。

そんなソテロが熱心に売り込んだのならば、政宗が乗り気になるのも無理はないところです。

政宗としても、当初は通商を結ぶことだけが目的だったのでしょう。奥州の発展を願う政宗にとって、スペインとの通商はまさに夢の取引です。

ところが話はソテロによってどんどん大きくなります。

ソテロとしては、日本の奥州王・伊達政宗が布教したがっていると本国や教皇庁に伝えれば、大きな成果となります。

幕府から許可を得た「訪墨施設団」を送るだけではなく、それを隠れ蓑として仙台藩の「訪欧施設団」を送ることにしたのです。

一方、政宗は幕府から許可を得ないまま、「カトリックの教えを仙台領内で広めたい、フランシスコ会の宣教師を派遣して欲しい、そうすれば厚遇する」と言う内容の協定書をこっそりと使節に持たせたのでした。

かくして慶長18年(1613年)9月15日、伊達家臣の支倉常長らとソテロの野心を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、白い帆をかかげて月ノ浦から出航します。

サン・ファン・バウティスタ号

復元されたサン・ファン・バウティスタ号/wikipediaより引用

同年、幕府はプロテスタント国のオランダと正式に国交を結び、東インド会社との交易を開始。

長崎平戸に「オランダ商館」が出来ます。

つまり、江戸幕府とカトリック教国は手切れというわけです。

さらに幕府は、その年の暮れにはキリシタン禁教令を発布し、本格的なキリシタン弾圧を始めます。

これを懇意であった柳生宗矩から聞いた政宗は「領内から早速キリシタンを追放する」と幕府に伝えながら、言葉とは裏腹に庇護をするのですが、結局、それも長くは続かないのでした。

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