伊達政宗

伊達政宗/wikipediaより引用

伊達家

伊達政宗は天下を狙っていた?派手な逸話を検証しながら70年の生涯まとめ!

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伊達政宗
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輝宗・政宗二頭体制に訪れた、突然の終焉

天正5年(1577年)、梵天丸は元服し、政宗と名乗りました。

政宗とは、伊達家中興の祖・九代目政宗と同じ名です。伊達家当主はそれまで足利将軍家から一字拝領していましたが、足利将軍家の没落とともにその慣習を終えたのです。

※ちなみに九代目政宗の弟がサンドウィッチマン伊達さんのご先祖様にあたります

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外交に長けた輝宗だからこそ、時代の変化を理解していたのでしょう。

そして天正12年(1584年)10月、伊達家の家督は輝宗から政宗へと渡されました。

このとき輝宗41歳、政宗18歳。

伊達輝宗/wikipediaより引用

壮年期の当主が20歳にならない子に家督を譲るというのは特異なことであるとされ、フィクションでは「政宗の器量をみこんで早めに譲った」という解釈がされてきました。

しかし最近の研究では、このような年齢での家督交替は特異なことではないという見方がされています。

佐竹義重から義宣、北条氏政から氏直も、この年代で家督を交替しています。

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ただし、このような場合、前当主である父と現当主である息子による二頭体制による統治となります。

輝宗と政宗も二人で外交はじめ政治を行っており、家督相続の翌年に輝宗が不慮の死を遂げなければ、そのまま二頭政治が続いた可能性が高いと思われます。

 


人取橋の戦い

家督相続をした政宗は、外交政策を大きく転換します。

それまで二十年の長きにわたって友好関係にあった蘆名氏との同盟を解消し、天正13年(1585年)2月には会津の桧原ひばらへ侵攻。

これ以前から蘆名氏は、伊達氏ではなく佐竹氏に接近していた中での出来事でした。

政宗が蘆名を攻めたのは、大内定綱の行動がキッカケでした。当初、伊達氏に従っていた定綱が、政宗に背く動きを見せたのです。

伊達軍は、定綱と同時に、定綱を支援した畠山義継も攻撃。義継は和睦交渉を申し入れますが、突如、交渉に関与していた輝宗を拉致するという行動に出ます。

政宗の手勢は反撃に出て、この報復の過程で輝宗ごと義継を射殺し、政宗はそのまま畑山攻めを続行します。

この過激な行動が、蘆名・佐竹ら反政宗勢力を集結させてしまうのです。

そして11月17日には安達郡で伊達と佐竹が激突。

戦国ファンに名高い【人取橋の戦い】です。

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政宗は数で劣る戦いで追い詰められるものの戦線を維持し、夜半に敵が理由不明の撤退をしたことで辛勝をおさめます。

と、すぐさま二本松攻めを再開し、天正14年(1585年)4月、相馬義胤のとりなしにより和睦が成立。畠山氏は二本松城を出て、二本松領は伊達氏のものとなりました。

なんて、サラリと書いてしまいましたが、政宗はなかなかトンデモナイことをしでかしているんですね。

いくら戦国時代とはいえ、父親ごと敵を射殺というのはかなり異常な行動。恩師の虎哉も「お前が畠山をむやみに追い詰めたからこうなったんだろうが!」と激怒したとか。

さらには「伊達家当主は二人もいらないから、片方始末したの?」と皮肉る落首が書かれる始末です。

輝宗の側近であり外交手腕に長けた遠藤基信は殉死してしまい、周囲の大名も政宗に対して厳しい目線を向けます。

父子対立が絶えない戦国の世とはいえ、政宗の行為は度を超したものとして周囲に認識されていたのです。

フィクションでは覚悟を決めた輝宗が「わしを撃て!」と叫んだりしますが、これは流石に美化され過ぎではないでしょうか。

前述の通り、輝宗は二頭体制で政治を切り盛りする路線だったと思われるわけでして。そこから発展して、この一件は輝宗と外交政策でそりのあわない政宗による計画的謀殺説すらあるほどです。

今となっては真相は闇の中ながら、いずれにせよ伊達家の二頭体制は、突然終焉を迎えたのでした。

 


奥州探題vs羽州探題 仕切るのは俺だ!

父の死後、しばらくの間、政宗は積極的な行動を起こしませんでした。

そして天正15年(1586年)冬、政宗は大崎家の内紛に武力介入します。内紛への武力介入は伊達家の得意とするところであり、奥州探題としての意識的な行動です。

ところがこの大崎合戦がなかなか厄介な経過をたどります。

伊達家の武力介入は反撃に遭い失敗。

さらには政宗にとって母方の伯父にあたり、羽州探題である最上義光が、大崎家の支援に介入してきたのです。大崎家当主の義隆は義光正室の兄であり、彼にとっては義兄でした。

アートとしてもイケてる最上義光像

前述の通り、両者は最初から険悪な仲だったわけではなく、輝宗の代では、上方の軍勢が奥羽に侵攻した場合、最上氏と伊達は連携する手はずになっていました。

政宗の軍事行動の際には、最上家から援軍が加わることもあり、後年の長谷堂合戦では伊達家から最上家に援軍が出されています。

両者はライバルとみなされることもありますが、武田信玄上杉謙信のような、本気で火花を散らした関係とは異なるのです。

かといって常に仲が良かったわけではないという、つかずはなれずの関係と申しましょうか。

マンガやドラマでは、義光と義姫が政宗の廃嫡を企み、小次郎擁立による伊達家支配を狙っていた――なんて設定もたびたび登場しますが、これも創作です。

二人の行動パターンを見ていると、実のところよく似ておりまして。

「奥羽の秩序を仕切るのは、探題の役目である」と共に考えていたことが、対立の根本にあるのです。

例えば書状などにおいては両者とも「国中の儀」や「侍道の筋目」「骨肉」という言葉を使いました。

さらに探題職として助力を頼まれれば援軍を送り、逃げ込んで来た者がいれば匿い、紛争を仲裁するのも自分たちの責務であると意識していたのです。

喧嘩をしている者がいれば割り込んで「まあまあ、このへんでやめておけ」と仲裁するのが役目であって、喧嘩相手を殴り倒すこととは違うわけです。

以下の最上義光の記事でも触れましたが、人口が少なく、寒冷な地域であった東北には「相手を完膚無きまで倒すことはしない」という東北のやり方があり、彼らも土地の特性にあわせて最良の方法を探っていたわけです。

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ある意味、伊達と最上のこうしたやり方は「惣無事」の原型とも言えます。

 

伊達家を支えた片倉喜多と景綱 2人は最上寄り

かくして最上も絡んだ【大崎合戦】で足踏みをしている政宗の苦境が伝わると、周辺の勢力が動き出します。

相馬、蘆名、佐竹ら連合軍が軍事行動を起こし、天正16年(1587)6月、郡山城を包囲(郡山合戦)。政宗自ら出陣し粘り強く戦い抜き、翌月にはなんとか和議に持ち込みます。

更に、この同時期、伊達・最上領の国境に最上勢が進軍します。

いよいよ一触即発!となったその瞬間、両軍の間に現れたのが政宗の母であり最上義光の妹であった義姫です。

彼女の登場によって両者は和議を成立させたのでした。

この義姫の行動は「肝っ玉母ちゃんの勝手な行動」とネタにされたり、「平和を愛する女神のような義姫の献身」と美化されたりしがちですが、決して突発的な行動ではありません。

80日間の長期滞在ですから、輿で乗り込んで座りこむだけではなく、大名夫人が寝起きできるようちゃんと即席の小屋が作られています。

周囲には片倉景綱の姉である片倉喜多はじめ侍女がついていて、景綱の許可も得ていました。

ここで片倉喜多&景綱の姉弟について補足説明しておきましょう。

片倉景綱/wikipediaより引用

喜多は、政宗の乳母とされていますが、生涯独身で子がなかったので、乳を与える役目は担っていません。

喜多には義姫や政宗正室・愛姫の侍女をしていた時期もあります。

養育係というだけにはとどまらず、秘書的な役目を果たすキャリアウーマンといったところでしょうか。

彼女の才知をほめたたえた豊臣秀吉が、清少納言に由来する少納言の名を与えたという逸話もありますが、秀吉に出会う前から少納言と呼ばれていますので、創作でしょう。

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一方、景綱は、小十郎の名がよく知られています。この名の由来は母方の叔父・飯田小十郎が武勇に優れていたことにあやかっています。

そして飯田小十郎は最上家家臣です。つまり彼の母親は最上家臣の娘、ということになります。

また、景綱のおばが最上家の氏家氏に嫁いだとする家系図も。義光の父・最上義守が重病の際、伊達家から景綱らを枕頭に呼び寄せて「私の死後も伊達と最上は協力していくように」と言付けたという話も残っています。

つまり景綱は、かなり最上家寄りな人物なんですね。

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景綱は政宗の右腕、軍師としてフィクションで描かれることが多く、傅役とされることもあります。

が、当時の記録には残っていません。

9歳で政宗の御小姓となって以来、そばにいたことは確かです。ただ、天正14年(1585)には大森城主となり、政宗の側にピッタリという状態ではなくなっています。

そもそも景綱の業績を見ていくと、参謀というよりも外交担当的な役目が多い。

政宗と小十郎のコンビは有名で人気もあり、常にセットであるかのようなイメージがありますが、あくまでフィクションとしての描写と思っていた方がよいかもしれません。

閑話休題。

話を戻しますと、この「義姫和睦作戦」は景綱の影がチラチラと見え隠れします。

外交担当として最上家と関わってきた景綱からすれば、まさに義姫こそ最高のカードだったのでしょう。

結果的に伊達と最上は一滴の血も流れずに解決したのですから、これこそ景綱の面目躍如というところではないでしょうか。

もちろん義姫本人の交渉力もあります。政宗も義光も当時は余裕がなくて、本音を言えば矛を収めたいのにきっかけがなくて困っていた、という事情もありますが。

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