こちらは5ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【伊達政宗】
をクリックお願いします。
大坂の陣では味方を一斉射撃で全滅に追い込む
正直、このときばかりは政宗も運がありませんでした。
切り取り次第で二万石の加増。こう書くと関ヶ原での政宗が弱かったように思えますが、そう単純な話でもないのです。
上杉勢が主力を伊達勢のいる東方へと展開したため、結果的に伊達勢は上杉勢えり抜きの主力とぶつかりあうことになったわけです。
一方で最上が進軍した西方の庄内方面は、やや手薄でした。最上勢は自領に残り降伏した上杉の将を侵攻の戦闘に立たせていました。彼らは降伏したばかりですので、武功を立てようと必死で働きます。
伊達側は悪条件、最上側には好条件が揃っていたのです。
しかも政宗の場合、家康本人から「景勝と和睦するから攻めるな」と停戦要請をされているわけです。
そりゃ政宗からすれば、食べ放題ビュッフェのはずが、メニュー制限があったと判明、みたいな納得のいかない気持ちですよ。
「思う存分切り取っていいって言ったのに、止めましたよね? それって約束が違うじゃん!」となっても仕方がないかもしれません。
納得が行かないからこそ、後でお墨付きを持ち出した。政宗が北の関ヶ原において、大きな不満があったことは確かでしょう。
なんせ彼はまさに脂のノリきった時期。ここで俺の進撃が終わるなんてつまらないよなぁ、と思ったとしても不思議ではないハズです。
政宗最後の戦いは、他の多くの大名と同じく慶長19~20年(1614~15年)の「大坂の陣」でした。
伊達勢は真田信繁勢を相手にして大苦戦。味方の神保相茂隊を一斉射撃して全滅に追い込み、諸大名を呆れさせております。
このとき伊達家の騎馬鉄砲隊が活躍したとも言われていますが、騎馬鉄砲隊についての記述が江戸後期からしかありませんので、後世の創作でしょう。
大坂の陣で、政宗は真田信繁の子女を保護したとも、乱取りしたとも伝わっています。
信繁が政宗の器量を見込んで預けたとも言われていますが、真偽は不明。政宗に保護された信繁の子は、仙台真田氏として存続することになります。
幸村の娘・阿梅を救った片倉重長にシビれる!大坂の陣100年後に仙台真田氏が復活
続きを見る
人生楽しまないでどうしろっていうんだ!
泰平の世が訪れ、政宗の人生もまた落ち着きます。
乱世が終わって退屈するどころか、実のところ政宗は江戸初期という時代をエンジョイしているんですね。
政宗というのは天性のエンターティナーであり、目立つのが大好きなパーリーピーポーであり、セルフプロデュース力が備わっています。
晩年になると当時を知らない徳川家光相手に「いやあ、実は俺も、天下を狙ってたんですよね」なんて吹聴して「政宗さんマジパネェっす……」と憧れの目で見られたりするわけですよ。
まさにノリノリ。
といった政宗の態度を見ていると、十年遅いどころか『最もよい時代に生まれたきたんでは?』と思わざるを得ません。
戦国を知らないひよっこ相手に武勇伝を語って得意顔できたのも、政宗があの時代に生まれたからこそだと思います。
政宗は、どんな時代に生まれてきたって、類まれな個性で輝くことができる――魅力にあふれたスーパースターでした。
そんな政宗が築き上げたのが仙台城です。
中世城郭・千代城をもとに築き上げられた仙台城。近代城郭としては最大級の面積を誇り、見事な石垣は織豊期の技術を用いて築かれています。
地元では青葉城という名で人々に親しまれ、政宗が整備した寺社仏閣も現在にまで仙台藩の威容と栄光を伝えています。
仙台市そのもの、宮城県そのものが、政宗の内政への尽力を物語る証拠です。
仙台は、もとは千代という名でした。
それが、唐代の詩人・韓コウ(広羽)の漢詩「同題仙遊観」の中の起句「仙台初見五城楼」から採られ、仙台へと変更。漢詩にも造詣が深い政宗らしい発想です。
さらに同藩は、江戸期を通じて東北の要として機能しました。
特に米の生産量は莫大で、江戸で消費される米の三分の一は仙台藩産であった時期もあったほどです。
ここまで発展できた基礎を築いたのは、言うまでもなく政宗です。
奥羽の中心地として整備されたこの街は、現在も東北地方唯一の百万人都市として発展しています。「杜の都」と称される街並みは美しく、政宗の洗練された美意識が伝わっています。
仙台駅はじめ、市内には政宗の甲冑、前立て、陣羽織をモチーフとした意匠が用いられ、四百年を経ているとは思えないほど斬新さ。
飽きの来ないデザインモチーフは、街並みの洗練されたアクセントとなっているのです。
そして仙台には政宗が由来とされる食品や風習がいくつも伝わり、彼への敬愛を忘れない人々の思いが感じられます。
寛永13年(1636年)5月24日、政宗は70年の生涯を終えました。
曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く
領国経営で手腕を発揮し、将軍や大名たちから敬愛され、泰平の世を楽しんだ政宗。
晩年、生涯を振り返ってこう詠みました。
馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所
不楽是如何 楽しまずして是を如何にせん
残された人生楽しまないでどうしろっていうんだ!
そう詠む感性はまさに爽快で痛快。四百年の時を経ても、人生を楽しんだ政宗の豪放磊落さが伝わって来ます。
さて、長い本稿もそろそろ終わりです。
パーティお開きの前に、彼の行動をおさらいしつつ、フィクションによくある設定をファクトチェックしてみましょう。
政宗の著名エピソード チェック!
政宗さんの、これ、ホント? | 回答 | 解説 |
---|---|---|
①義姫は政宗の醜さを憎み、小次郎を偏愛していた | × | 書状のやりとりを見ると、母子の仲が悪かったようには思えません |
②片倉景綱が眼球を摘出した | × | 頭蓋骨に眼球摘出を由来とする陥没がない。景綱が政宗の腹部にできた腫瘍を治療したことは史実 |
③眼帯を着用 | × | 右目は白濁した状態で眼帯はしていませんでした。※欄外の瑞巌寺木像参照 |
④伊達政宗は長身のイケメン | △ | 身長はおよそ160センチ、当時の平均程度です。隻眼で疱瘡の跡もおそらく残っていたため、当時の基準では美男とは言えない容貌であったようです。ただし復元された顔は面長で気品があります。それに結局のところ人の美醜は、その人に備わる魅力やオーラに左右されます。政宗がイケメンだと思うなら、そう信じればいいんです、それで幸せになれるならそれでいいんです |
⑤独眼竜は後世の作家がつけたニックネーム | △ | 行動を見てみると、政宗本人も李克用を意識していたため、そうとも言い切れないのでは |
⑥伊達輝宗は政宗の器量をみこんで家督を譲った | × | 当記事の本文をご参照ください |
⑦伊達政宗は戦上手 | △ | そもそも伊達氏は奥羽一の大大名ですから、その時点で強いのは当然といえます。にも関わらず、大崎合戦は数で勝ちながら、手痛い敗北を喫しているわけです。ここまで見てきてなんとなくわかると思いますが、政宗がスカッと勝利をおさめたのは、まだ若い総大将相手の摺上原の戦いくらいかな、というところ。この蘆名氏との戦闘にせよ、実は激しい抵抗にあい落とせなかった小城が蘆名領には結構あります。政宗が長けていたのは、むしろ外交的交渉です。大内氏・大崎氏・石川氏は最終的に外交的に屈服させ、最上義光も外交力で抑え込んでいます。それに結局のところ戦というものは、時の運に左右されます。政宗が戦上手だと思うなら、そう信じればいいんです、それで幸せになれるならそれでいいんです |
⑧片倉景綱は政宗の傅役であり、右腕として常に側にいた | × | ただし、政宗と景綱は親しく、若い頃政宗はよく景綱の家に遊びに訪れていたようです。景綱や伊達成実と比較するとフィクションでは登場しませんが、仙台藩の基礎作りには茂庭綱元が大きく関わっています |
⑨片倉景綱は最上家を嫌っていた | × | ただし伊達成実は最上が嫌い |
⑩義姫は小次郎を偏愛し政宗を疎んじ、最上義光は伊達家のっとりを企んでいた | × | そもそもこの話、伊達家と最上家の力の差を考慮していないと思います |
⑪奥羽(現在の東北地方を統一した) | × | 当記事の本文をご参照ください |
⑫陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)を統一した | × | 当記事の本文をご参照ください |
⑬撫で斬り等厳しい態度をとり、奥羽のぬるい大名をふるえあがらせた | × | 当記事の本文をご参照ください |
⑭一大名に過ぎない伊達家を奥羽一の大大名にした | △ | 政宗家督相続前から伊達家は奥羽一。ただし政宗の領土拡張が広大であったことは事実 |
⑮伊達政宗は奥州筆頭 | △ | 奥州筆頭という役職はありませんが、奥州探題のこと、あるいは陸奥を代表する大名というニュアンスならあながち間違いとは言えない、かも |
⑯伊達政宗は関東侵攻をたくらんでいた | × | 最上義光に「このまま関東も簡単に攻め落とせる」と書き送り、晩年「関東を越えてこれからというところで秀吉が来ちゃってさ」と回想している政宗。実際に行動を見ていると陸奥を越えて南進することはありません。また出羽へと西進することもありません。彼の行動はあくまで反伊達派への対応中心であって、状況からみると陸奥を出ることを考えていたようには思えないのです |
⑰あと十年、二十年早く生まれていたら天下を取れていた | × | 前項の通り、言葉とは裏腹に陸奥の中にとどまっていた政宗。もっと早く生まれたとして、陸奥の外まで進んだかどうかは疑問が残ります。十年、二十年早い時代には蘆名氏全盛期であり、陸奥を超えたとしても関東以南には錚々たる大名が揃っています。そもそも政宗本拠地の陸奥は寒冷地であり、農業生産力でも劣っています。無理でしょう |
⑱派手な服装を秀吉から気に入られたおかげで、朝鮮に渡らずに済んだ | × | 当記事の本文をご参照ください |
⑲一揆煽動の嫌疑を、鶺鴒の花押に穴が空いていないと誤魔化した | × | 当記事の本文をご参照ください |
⑳「伊達者」の語源は伊達政宗 | × | 当記事の本文をご参照ください |
㉑関ヶ原で「百万石のお墨付き」を反故にされた | × | 当記事の本文をご参照ください |
㉒大坂の陣では伊達家の騎馬鉄砲隊が活躍した | × | 江戸後期から『常山紀談』等に出てくる話ですが、政宗存命中にはこれに関しての記述は全くなく、後世の創作です。当時の軍団編成からみてもありえない形態です。ただし、他の地方と異なり、奥羽の武士は騎馬から降りずにそのまま武器を持って戦っていました。このことは政宗自身が語り残しています |
㉓支倉常長の遣欧使節団は、スペインと手を組んで天下を取るための策 | × | 当時のスペインの状況、現実性等考慮すると、荒唐無稽な話としか思えません |
㉔ずんだを発明したのは政宗 | × | 枝豆を用いた餡は東北南部を中心に他の地域にもあり、名称も異なる場合があります。「ずんだは宮城名物、だって伊達政宗が発明したんだもんね!」と言うと山形や福島の人と揉める可能性があります。ご注意ください |
あとがき~伊達政宗を楽しもう!
筆者を政宗アンチと思う人もいるかもしれません。
ネチネチと重箱の隅をつつきやがって、ロマンを壊しやがって、そう言いたくなる気持ちはわかります。
「昔読んだ政宗の本と違うじゃないか!」
そう仰りたい気持ちもわかります。
私も書いている間、「こんなことを書いていいのだろうか?」と何度も迷いました。
私も政宗に興味を持ったきっかけはフィクションでした。
そこから興味を持ち、調べていくうちにフィクションにおける誇張と創作がわかり、信じてきた設定が実は間違っていたと知った時は、騙されたような、自分の中にある政宗像を壊されたような気がして、ものすごく不愉快な気持ちになりました。
政宗のことも嫌いになりかけました。
ずんだ餅・政宗起源説の真偽『政宗と時代劇メディア』で学ぶ独眼竜
続きを見る
しかし、です。
さらに調べてゆくと、政宗は誇張せずとも十分魅力がある、むしろ『ありのままの政宗って最高だな』と思えるようになりました。
戦が強いことだけが政宗の魅力ではありません。
彼の書状、残した和歌や漢詩、斬新なデザインセンス、やんちゃで茶目っ気あふれる行動、人間味溢れる失敗の数々。
そう思えてくると、今度はフィクションでの設定が気になり出しました。
郷土の偉人や先祖を褒めたい気持ちは理解できるにしても、やり過ぎなのではないか? 画像加工が派手なプリクラのように、かえって変になっている部分がないだろうか?
この記事をまとめるにあたり、幸いにもそうした「盛り過ぎ政宗像」を修正する書物を参照することができました。
本稿は、最新の優れた東北戦国史研究の一端を参照させていただいておりますが、私の狭い知識のバイアスがどうしても入ってしまいますので、気になる方は是非、記事末の参考文献にあたっていただければと思います。
私は、歴史上の人物を崇拝し、見習おうとはあまり思いません。
時代があまりに違いすぎて、ともすれば努力がズレてしまいそうな感覚に陥ります。
しかし政宗だけは例外です。
セルフプロデュース力、コミュニケーション能力、遅刻や失敗をしてもうまくリカバリする機転、人生を楽しむ力。
政宗のような図太さこそ、生きていく上で見習いたい点だと感じています。
どんなに落ち込んでいても、政宗について考え、調べているだけで気持ちが明るくなり「まあ何とかなるさ!」と思えるんですね。
こんな魅力的な人物、そうそうおりません。
本稿はいわば、政宗という巨大で豪壮な宮殿の入り口に敷かれた玄関マット程度のものです。
これをきっかけに政宗を調べてゆけば、きっと楽しいパーティがあなたを待ち受けていることでしょう。
伊達政宗というスーパースターの宴を、どうか楽しんでください!
あわせて読みたい関連記事
政宗の曾祖父・伊達稙宗がカオス!天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱へ
続きを見る
なぜ伊達輝宗は息子の政宗に射殺されたのか? 外交名人だった勇将の生涯に注目
続きを見る
最上義光(政宗の伯父)は東北随一の名将!誤解されがちな鮭様の実力
続きを見る
政宗の母で義光の妹・義姫(よしひめ)は優秀なネゴシエーター 毒殺話はウソ
続きを見る
西の戦国最強と称された立花宗茂~浪人から大名へ復活した76年の生涯
続きを見る
真田信繁(幸村)は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?最新研究からの考察
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【主な参考文献】
遠藤ゆり子『東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱(吉川弘文館)』(→amazon)
高橋充『東北の中世史5 東北近世の胎動(吉川弘文館)』(→amazon)
大石学/時代考証学会『伊達政宗と時代劇メディア(今野印刷株式会社)』(→honto)※現在在庫無し
遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏(吉川弘文館)』(→amazon)
佐藤憲一『伊達政宗の手紙 (新潮選書)』(→amazon)
小林清治『伊達政宗の研究(吉川弘文館)』(→amazon)
小林清治『戦国大名伊達氏の研究(高志書院)』(→amazon)
小林清治『人物叢書 伊達政宗(吉川弘文館)』(→amazon)
他