伊達家 最上家

政宗は本当に白装束で秀吉にひざまずいたのか?伊達と最上の小田原参陣 その真実

豊臣秀吉小田原城を包囲して、北条氏を滅亡に追い込もうとする。

戦国マンガやドラマでそんな展開に突入するとき、必ずといっていいほど描かれる名場面がこれ。

陸奥の戦国大名伊達政宗が“白装束”で現れ、秀吉の前にひざまずく――それを見た秀吉は「あと一歩遅かったら首がなかったぞ」とニヤリ。

ギリギリまで決断ができなかった苦渋の政宗。

それでも白装束でやってくる度胸を、上から目線で「青二才がw」と内心喜んでしまう秀吉。

小田原合戦では戦国ファンが楽しみにしている、いかにもドラマチックなシーンですが、そこに至るまでは当然事情があり、実は政宗だけでなく、その伯父である出羽の大名・最上義光徳川家康も密接に関わっています。

奥羽では一体何が起きていたのか?

伊達と最上の小田原参陣を振り返ってみましょう。

 


伊達輝宗、次代を見据える

陸奥随一の戦国大名であり、何かと目端が利く人物であった伊達輝宗

彼の冴えた見通しの一つとして、嫡子・梵天丸の命名が挙げられます。

伊達家にとって中興の祖である9代・政宗と同じ名を我が子につけたのです。独眼竜こと伊達政宗ですね。

これの何が画期的だったのか?

それまでは輝宗自身を含め、伊達家では足利将軍の偏諱でした。つまり輝宗は「これからは室町幕府ではなく、別の力に頼る時代だ」と判断したのでしょう。

輝宗は中央の意向に目を配っていました。

奥羽が名産とされる馬や鷹を織田信長に献上しながら接触を図ったり、情勢の把握に努めていたのです。

同時に輝宗は、自身の正室である義姫を通じて、その兄・最上義光とも親しくしていました。

義光は義姫に向かって「輝宗殿とは仲が悪くなかった」としみじみと語るほど。単なる相性云々の問題ではなく、両者の動きを見てもそれは証明されています。

最上家も、義光の代から西へ目を向け進出していました。もしも東の伊達家が背後から牽制していようものなら、できない動きです。

陸奥の伊達と、出羽の最上――この両者の動きを見ていくと、輝宗のプランも浮かんできます。

外交に長けた伊達家の当主・輝宗は陸奥の盟主として動く。

まだ分裂している出羽は、最上義光がまとめる。

こうして陸奥と出羽で手を組み、もしも中央から敵として軍勢が来たら迎え撃つ――幕末の【奥羽越列藩同盟】にも似た構想が見えてきます。

※以下は伊達輝宗と最上義光の関連記事となります

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馬上少年過ぐーーそう振り返る混沌へ

2023年8月末、こんなニュースがありました。

◆「今、家督を継いだよ」 伯父にあてた伊達政宗の書状から浮かぶ日付(→link

天正12年(1584年)、家督を継いではしゃぐ政宗の書状だと特定されたのです。

伊達と最上両家の仲が良好であることに驚いた反応もあったようですが、そもそも両者には手を組むメリットがありました。この時点では、そもそも仲が悪くなかったのです。

この書状は、天正10年(1582年)【本能寺の変】から2年後のこと。

中央に目を向けていれば、そろそろ天下がまとまるとわかる頃です。なぜそんな時期に家督を継いではしゃいでいるのか。

実は伊達家では、父から子へ家督が譲られても、実質的に父が権限を握る、二頭体制が伝統的に用いられていました。

ところが、父・輝宗と子・政宗はどうにも方針が異なっていたようです。

血気盛んで抗戦的な政宗と、外交重視の輝宗ですから、根本のところで噛み合わない。

これにヤキモキさせられたのが最上義光です。

政宗は甥っ子ではありますが、大名家の当主だけに叱り飛ばすわけにもいかず、周囲に「伊達政宗は信用ならん奴」と警戒を促すようになっておりました。

しかも天正13年(1585年)に伊達輝宗は、息子の政宗に射殺されてしまいます。

いくら乱世だろうと父を白昼射殺するという政宗の行動はあまりに常軌を逸している。義兄が甥によって殺されて、義光はどれほど驚いたことでしょうか。義光のみならず周囲の警戒は高まるばかり。

フィクションでは、若き伊達政宗が周囲と戦う姿が凛と描かれるかもしれませんが、それはあくまで政宗目線での見方です。

周囲からすれば、父とは打って変わった危険人物に見えても、おかしくはないでしょう。

政宗は信頼できない非常識な若造――最上義光がそうして苦慮する一方、政宗や出羽の国衆からしてみれば、他ならぬ最上義光こそムカつく奴でした。

ことあるごとに出羽の支配者だという理屈を持ち出すのです。

最上家の先祖は室町幕府がさだめた羽州探題・斯波兼頼(しばかねより)とされています。

そうはいってもとうの昔に形骸化しているじゃないか。今更持ち出してなんなのだ。そうなっても致し方ないことです。

後に政宗が「馬上少年過ぐ」と振り返る日々は、かくして過ぎてゆきました。

そうなのです。伊達政宗がその人生において、長いこと馬上で揺られていたのは若い頃に過ぎません。彼は時代の変わり目に生まれついていました。

馬の上で戦いながら、政宗もわかっていることがありました。

どうにも西の情勢が急激に動いているらしい――。

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