伊達家 最上家

政宗が白装束で秀吉にひざまずいた話は本当なのか? 伊達と最上の小田原参陣

2025/07/03

豊臣秀吉が小田原城を包囲して、北条氏を滅亡に追い込もうとする。

戦国マンガやドラマでそんな展開に突入するとき、必ずといっていいほど描かれる名場面がこれ。

陸奥の戦国大名・伊達政宗が“白装束”で現れ、秀吉の前にひざまずく――それを見た秀吉は「あと一歩遅かったら首がなかったぞ」とニヤリ。

ギリギリまで決断ができなかった苦渋の政宗。

それでも白装束でやってくる度胸を、上から目線で「青二才がw」と内心喜んでしまう秀吉。

小田原合戦では戦国ファンが楽しみにしている、いかにもドラマチックなシーンですが、そこに至るまでは当然事情があり、実は政宗だけでなく、その伯父である出羽の大名・最上義光や徳川家康も密接に関わっています。

奥羽では一体何が起きていたのか?

伊達と最上の小田原参陣を振り返ってみましょう。

伊達政宗/wikipediaより引用

 

伊達輝宗、次代を見据える

陸奥随一の戦国大名であり、何かと目端が利く人物であった伊達輝宗。

彼の冴えた見通しの一つとして、嫡子・梵天丸の命名が挙げられます。

伊達家にとって中興の祖である9代・政宗と同じ名を我が子につけたのです。独眼竜こと伊達政宗ですね。

これの何が画期的だったのか?

それまでは輝宗自身を含め、伊達家では足利将軍の偏諱でした。つまり輝宗は「これからは室町幕府ではなく、別の力に頼る時代だ」と判断したのでしょう。

伊達輝宗/wikipediaより引用

輝宗は中央の意向に目を配っていました。

奥羽が名産とされる馬や鷹を織田信長に献上しながら接触を図ったり、情勢の把握に努めていたのです。

同時に輝宗は、自身の正室である義姫を通じて、その兄・最上義光とも親しくしていました。

義光は義姫に向かって「輝宗殿とは仲が悪くなかった」としみじみと語るほど。単なる相性云々の問題ではなく、両者の動きを見てもそれは証明されています。

最上家も、義光の代から西へ目を向け進出していました。もしも東の伊達家が背後から牽制していようものなら、できない動きです。

陸奥の伊達と、出羽の最上――この両者の動きを見ていくと、輝宗のプランも浮かんできます。

外交に長けた伊達家の当主・輝宗は陸奥の盟主として動く。

まだ分裂している出羽は、最上義光がまとめる。

こうして陸奥と出羽で手を組み、もしも中央から敵として軍勢が来たら迎え撃つ――幕末の【奥羽越列藩同盟】にも似た構想が見えてきます。

 


馬上少年過ぐーーそう振り返る混沌へ

2023年8月末、こんなニュースがありました。

◆「今、家督を継いだよ」 伯父にあてた伊達政宗の書状から浮かぶ日付(→link

天正12年(1584年)、家督を継いではしゃぐ政宗の書状だと特定されたのです。

伊達と最上両家の仲が良好であることに驚いた反応もあったようですが、そもそも両者には手を組むメリットがありました。この時点では、そもそも仲が悪くなかったのです。

この書状は、天正10年(1582年)【本能寺の変】から2年後のこと。

中央に目を向けていれば、そろそろ天下がまとまるとわかる頃です。なぜそんな時期に家督を継いではしゃいでいるのか。

実は伊達家では、父から子へ家督が譲られても、実質的に父が権限を握る、二頭体制が伝統的に用いられていました。

ところが、父・輝宗と子・政宗はどうにも方針が異なっていたようです。

血気盛んで抗戦的な政宗と、外交重視の輝宗ですから、根本のところで噛み合わない。

これにヤキモキさせられたのが最上義光です。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用

政宗は甥っ子ではありますが、大名家の当主だけに叱り飛ばすわけにもいかず、周囲に「伊達政宗は信用ならん奴」と警戒を促すようになっておりました。

しかも天正13年(1585年)に伊達輝宗は、息子の政宗に射殺されてしまいます。いくら乱世だろうと父を白昼射殺するという政宗の行動はあまりに常軌を逸している。

義兄が甥によって殺されて、義光はどれほど驚いたことでしょうか。義光のみならず周囲の警戒は高まるばかり。

フィクションでは、若き伊達政宗が周囲と戦う姿が凛と描かれるかもしれませんが、それはあくまで政宗目線での見方です。

周囲からすれば、父とは打って変わった危険人物に見えても、おかしくはないでしょう。

政宗は信頼できない非常識な若造――最上義光がそうして苦慮する一方、政宗や出羽の国衆からしてみれば、他ならぬ最上義光こそムカつく奴でした。

ことあるごとに出羽の支配者だという理屈を持ち出すのです。

最上家の先祖は室町幕府がさだめた羽州探題・斯波兼頼(しばかねより)とされています。

そんな役職、とうの昔に形骸化しているじゃないか! 今さら持ち出してなんなのだ! そうなっても致し方ないことです。

後に政宗が「馬上少年過ぐ」と振り返る日々は、かくして過ぎてゆきました。

そうなのです。伊達政宗がその人生において、長いこと馬上で揺られていたのは若い頃に過ぎません。

彼は時代の変わり目に生まれついていました。馬の上で戦いながら、政宗もわかっていることがありました。

どうにも西の情勢が急激に動いているらしい――。

 

陸奥のことは徳川家康に任せる時代

天正14年(1586年)春、その情勢は確たる命令として、豊臣秀吉からつきつけられました。

伊達と蘆名の抗争を止めるよう、佐竹義重に命じてきたのです。

このとき政宗は蘆名の同盟者である畠山氏を攻撃していました。文書は上杉家に伝来しており、佐竹氏まで届いたかどうかはわかりません。

とはいえ、じわじわと「関白が戦を辞めろと命じている」という命令は東北まで届きつつありました。

同年秋には、秀吉が家康と対面を果たします。

豊臣秀吉(左)と徳川家康/wikipediaより引用

そして、このときより、奥羽を含めた東国の支配は、徳川家康を経由して行われるようになりました。

天正16年(1588年)秋、家康は、伊達と最上の抗争調停をはかります。

しかし、そうする前に調停を成し遂げたともいえる人物がいます。

伊達政宗の母であり、最上義光の妹である義姫です。

両者の間に駕籠で割って入り居座り、両者の衝突を避けたとされます。

彼女の突発的な行動というより、政宗の腹心である片倉景綱らの意向もあってのこととされ、義姫と景綱が外交をふまえて停戦に持ち込んだスマートな解決と言えるでしょう。

家康としても、落とし所です。

奥羽の大名に顔を売ることはできたし、佐竹義重から陸奥の担当者に交代できた。

「なんだ、きみら仲直りしていたのか。これからも関白の意向に沿って、派手にやりあわないようにしてくれ。よろしく頼む」

家康の登場により伊達も最上もトーンダウンして、その後は争い事が起きても、大事になる前に仲介することによって講和に結びつける展開となってゆきます。

最上義光は出羽探題として「関白の使者が来たらお出迎えしなさいよ」と命令を出すなど、我こそは出羽支配者という姿勢を強く押し出すようになりました。

 

義光「家康は信用できる」

義光にとって、徳川家康は救いの神に思えたかもしれません。

実はその年の夏、最上義光は痛恨の大敗北を喫していました。

義光は大宝寺義氏が前森蔵人に討たれたあと、実質的に庄内を支配。

しかし大宝寺義勝が上杉家に従う揚北衆・本庄繁長と手を組み、庄内を奪還されてしまったのです(【十五里ヶ原の戦い】)。

大宝寺義氏
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惣無事とは戦による領土拡張を禁じているはずだ!

そう義光は考え「上杉氏による庄内支配は無効である」と訴えます。

義光が頼ったのは家康です。

しかし、上杉氏は早々と豊臣大名となっていて、豊臣にしてみれば重要な存在です。

結局、最上の訴えは退けられ、交渉は失敗に終わります。

それでも義光にしてみれば「家康は信用できる」と受け取り、以降、頼りにするようになるのでした。

もう時代は変わった。戦ではなく、家康公を通して中央と外交で渡り合う。

頭をそう切り替えたのでしょう。

しかし、血気盛んなゆえか、見通しが甘かったか。

伊達政宗のパーリータイムはまだ続いていたのです。

 


会津の蘆名を倒したものの、時間切れだ

天正17年(1589年)、政宗は虎視眈々と会津を睨みつけるような状況でした。

陸奥国の要となる会津。

その地を支配する蘆名氏は、当主の早死にといった不幸が続き弱体化していました。

天正14年(1586年)、第19代・亀王丸が疱瘡で死去してしまうと、政宗は弟の小次郎を第20代当主として送り込もうとします。

しかし、よりにもよって、蘆名は伊達の敵である佐竹義重の弟を迎えてしまうのです。

こうした因縁のある蘆名家を倒した合戦こそ、馬上の政宗にとっては華――天正17年(1589年)【摺上原の合戦】へとなだれ込み、政宗は蘆名家に大勝利をおさめたのでした。

絵・富永商太

こうしてみてくると、こんな疑念が頭をよぎるでしょう。

その華々しい大勝利は秀吉を怒らせるだけで、外交という観点から見て、無意味どころか危ういのでは?

蘆名氏の危機に対し、秀吉が何もしていないわけもありません。目配りし、蘆名支援の勢力を南陸奥に配置していました。

弟である蘆名義広を会津から追われた佐竹義重も、黙ってはいられません。

義広ともども、外交による敗者復活を探っていました。

 

大勝利のあと、弁明を考える羽目に

天正18年(1590年)、政宗は正月を黒川城(現会津若松城)で迎えました。

冬の会津若松城(鶴ヶ城)

連歌会ではこう詠んでいます。

七種を一葉によせてつむ根芹

七草を一気に摘んじゃったよ!

念願の会津を手にしたぞ! 北関東の佐竹も殴ってやる!

政宗としては、そんな風にして隻眼をギラつかせていたのかもしれませんが、その段階まで来ると否が応でも現実が見えてきます。

どうしたって、佐竹義重の背後に関白がちらつくじゃねえかッ!

そこで問題だ!

この惣無事違反となる会津攻めへの追及は、どうかわせばいい!

政宗はいろいろと弁明しました。

①軍事行動が禁止というけれど、関白の許しを得て、上杉が伊達領侵攻を目論んでいるじゃないですか。

上杉景勝と直江兼続/wikipediaより引用

②そもそも蘆名のせいですよ。蘆名は、父・輝宗に弟・小次郎を当主にすると約束していたんですよ。それなのに佐竹が義広を送り込んできた! しかもあいつら、最上はじめ、周辺の連中がよってたかってアンチ伊達につくようにして、そのせいで輝宗は横死してしまうし。蘆名が親の仇なんです! これは親の仇討ちだ!

⓷伊達は室町幕府から任じられた「探題」ですから! それなのに田舎者どもが勝手に背いたのが悪いでしょ!

④だいたい、未だに上杉が会津に侵攻していると聞いたんですけど、ルール違反ではありませんか?

⓹まぁ、負けた蘆名の連中が悪知恵働かせているんでしょう?

この弁明について「これはあなただけの言い分ですよね、関係者と協議、検討のうえ、判断します」とされたのは②のみ。他はあっさり無視されました。

最上義光もそうでしたが、上杉の違反はカウントされないようで……。

「はぁ〜〜〜? 俺は納得いかねえっすわ!」

政宗としては当然こうなるでしょう。

現実は切迫しても、心情的に落とし所を探ることができず、どうにもぐずぐずしていたことは確かなようです。

それでも3月頃には、タイムアップと理解した政宗。

【小田原参陣】こそが秀吉への面会条件だと理解していました。

一方、最上義光はもっとまっとうな言い訳がありました。

父・義守がこの年の春に没しており「弔いを済ませてから参陣するため遅れる」という言い分があったのです。

義光はぬかりなくしっかりと、あのめんどくさい政宗を警戒するという含みも持たせていたのでした。さらには献上品や金子といった実質罰金も準備しておりました。

 


小田原出発前夜、政宗を襲う「御虫気」

しゃあない、そろそろ小田原へ出発だ――政宗がそう思ったとき、ある出来事により遅れてしまいます。

なんと母・義姫が、弟・小次郎に家督を継がせようとして毒を盛った!

というのですが……これは現在、否定論が優勢です。

ただし「御虫気」、要するに何らかの深刻な体調不良はあったようです。

政宗はしばしば無茶苦茶なことをする癖があり、鼠の味噌汁を飲んだこともあるほど。酒乱の傾向もあります。

しかし、胃腸がどうにも弱いらしく、家督相続からまもなく後も「虫気」で寝込んだこともあり、義姫も「あの子はすぐお腹を壊すから」と心配していました。

実はストレス性の胃腸不良に悩まされていて、【小田原参陣】前夜はそれがマックスへ……というのが真相かもしれません。

でも、それではストーリーにしても盛り上がらないよね。

と仙台藩の担当者も頭を悩ませたのか、毒盛りのエピソードはそんな経緯で生み出されたのかもしれません。

最上義光が伊達政宗・毒殺未遂の黒幕として扱われることも多いですが、義光としてはこうなるでしょう。

「こっちは親の葬儀を終えて、小田原向かう準備していて、無茶苦茶忙しくて、そんな余裕ありません!」

そもそも政宗は遅刻が多いらしく、ちょくちょく「遅刻します、すみません!」と書かれた書状が出てきます。つまりは、そういうタイプの人なのでしょう。

政宗の手紙
「二日酔いです・遅刻しそう・読んだら燃やして」政宗の手紙が気の毒なほど面白い件

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陸奥担当者としての徳川家康

伊達政宗と最上義光による【小田原参陣】。

早くから徳川家康が交渉窓口として機能していたことがわかります。

小田原に向かう最上義光は、徳川家康から出迎えを受け、感激しました。

徳川家康/wikipediaより引用

やはり頼りになる人だ……と家康を信じ続け、二男の最上義親を早々に家康の近侍として出し、「家親」と偏諱を受けているほどです。

これには家康も「大名子息を預かるなんて初めてだ、光栄だ!」と喜んだとか。

秀吉と面会した政宗は、非常に好印象を持ったようで「まるで亡き父のようだ」と振り返っています。

ただし、白装束を着て謝る政宗に対し、「首が危なかったぞ……」という秀吉のやりとりは、確たる記録はありません。

後世の創作というのが妥当なところでしょう。

それよりも問題はその後。

小田原での面会が非常に好印象だったにかかわらず、豊臣政権に対する感情は非常に悪化してゆきます。

豊臣秀次が自害をし、その妻子たちまでもが残酷に処刑された【秀次事件】では、政宗も義光も危機にさらされ、家康が助けに入っています。

豊臣秀次/wikipediaより引用

政宗にとっての「豊臣は最低だ!」という思いの丈は、五奉行の一人・浅野長政への絶縁状にあらわれています。

豊臣大名としての政宗の世話役であった浅野長政に、政宗は我慢がならなかったのです。

浅野長政/wikipediaより引用

かくして政宗は、秀吉が亡くなると、即座に家康と姻戚関係を結びました。

秀吉の死後、石田三成ら豊臣の忠臣は苦々しく思ったことでしょう。

亡き太閤が家康めを陸奥の取次にしたことが、こうも祟ってくるとは……

はたして北の関ヶ原こと【慶長出羽合戦】において伊達・最上は、豊臣サイドだった上杉と対決することになるのです。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
佐藤貴浩 『「奥州の竜」 伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』(→amazon
松尾剛次『最上氏三代:民のくたびれに罷り成り候 (ミネルヴァ日本評伝選) 』(→amazon
松尾剛次『家康に天下を獲らせた男 最上義光』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
日本史史料研究会・白峰旬 『関ヶ原大乱、本当の勝者』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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