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【細川忠利】
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清正の息子が改易され熊本へ
そういった経緯で突如細川家を担うことになった忠利は、真面目さでもって、家と藩を支えていきます。
体が弱い人がこのような立場になったら、一気に体調が悪くなる気もしますので、おそらく神経は細くなかったんでしょうね。
22歳のときに徳川秀忠の養女・千代姫と結婚して子供にも恵まれ、34歳で忠興から小倉藩を譲られて、二代藩主に就任。
その後、熊本藩の加藤忠広(加藤清正の息子)が改易されたため、熊本へ国替えします。
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加藤家が、イチャモンに見えなくもない改易を徳川幕府から告げられたので、次の忠利はかなり気を使っていたようです。
清正の位牌を掲げて熊本城に入り、清正の菩提寺に向かって手を合わせたとか。
熊本城修繕の際にも、加藤家の桔梗紋が入った瓦をそのまま残しています。
また、忠利は本丸には住まず、すぐ近くの花畑屋敷というところを国元での住まいにしています。
清正が熊本城を建てるときに使っていた屋敷で、仮住まいとは思えないくらい庭を作りこんでいたのだとか。
忠利は、清正に対する遠慮と尊敬、そして庭を好んでここに住んだのでしょう。
この辺がどれだけ効果があったかはわかりませんが、忠利の律儀さが伺えますね。
「この前送ってきた鮎の焼き加減は何だ!」
幕府や将軍に対する態度も真面目そのものでした。
あまりに幕府に信頼されるがゆえに、他の外様大名からは煙たがられるというビミョーな感じになったりもしています。
ただ、誰も事を荒立てなかったのは、やはり石高と本人の人柄によるものなのでしょう。
こうして54万石という大大名になった忠利は、父親の意見や教えもきちんと守っておりました。
忠興・忠利親子は他の家と比べて異様なほど手紙のやり取りをしており、それだけに日常のちょっとしたことまで伝わっているのが笑え……もとい人間らしさが見えて、親近感が湧いてきます。
まあ、忠興もやたら細かいことまで手紙を書きすぎてるんですけどね。
「この前送ってきた鮎の焼き加減は何だ! 教えただろ!!」(意訳)とか。姑か、アンタは。
ちなみに、忠利はこの困ったトーチャンのことを「子供のように純粋な人」と評しています。
本当に実の親子なのか疑わしいくらいの純粋ぶりです。
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