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【細川忠利】
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「この前送ってきた鮎の焼き加減は何だ!」
幕府や将軍に対する態度も真面目そのものでした。
あまりに幕府に信頼されるがゆえに、他の外様大名からは煙たがられるというビミョーな感じになったりもしています。
ただ、誰も事を荒立てなかったのは、やはり石高と本人の人柄によるものなのでしょう。
こうして54万石という大大名になった細川忠利は、父親の意見や教えもきちんと守っておりました。
忠興・忠利親子は他の家と比べて異様なほど手紙のやり取りをしており、それだけに日常のちょっとしたことまで伝わっているのが笑え……もとい人間らしさが見えて、親近感が湧いてきます。
まあ、忠興もやたら細かいことまで手紙を書きすぎてるんですけどね。
「この前送ってきた鮎の焼き加減は何だ! 教えただろ!!」(意訳)とか。姑か、アンタは。
ちなみに、忠利はこの困ったトーチャンのことを「子供のように純粋な人」と評しています。
本当に実の親子なのか疑わしいくらいの純粋ぶりです。
生来の病弱さは克服できず
忠利は、由緒正しい武家の生まれですから、武働きもきちんとしています。
【島原の乱】では一番槍をつけ、武功もきっちり挙げました。
忠興いわく「ウチはただでさえ領地が多くてやっかまれやすいんだから、あまり手柄を吹聴しないように」(意訳)とたしなめられてもいますが。
忠利は平和になりつつある時代の人にしては武芸にも熱心で、柳生宗矩に剣を習い、秘伝書を伝えられています。
病弱だからこそ、体を鍛えたかったのかもしれませんね。
今で言えば、ぜんそくの方が水泳を習うような感じでしょうか。ちょっと違うか。
宮本武蔵を客分として招いているのも、自分が優れた剣の使い手だったからでしょう。
しかし、忠利の病弱さは生涯治りきることはありませんでした。
あるとき、忠興の隠居先へ出かけた帰りに具合が悪くなり、そのまま息を引き取ってしまいました。
享年55。
父の死から五年先のことです。
孫の綱利は赤穂浪士を厚遇して
ちなみに、忠利の息子・細川光尚(みつなお)も、忠利が亡くなってから八年後にこの世を去りました。
光尚の子・細川綱利(つなとし)はまだ六歳だったため、実はこの段階で細川家は改易の危機に……。
光尚が今際の際に「息子はまだ幼いし、藩主の器かどうかもわからないから、幕府に領地をお返しします」という遺言をしていた&家臣たちが頑張ったおかげで、改易はされなかったのですが。
なお、細川綱利は赤穂浪士が切腹するまでの期間、手厚くもてなしたことでも知られます。
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ここまで来るともう戦国ではなく江戸時代の序盤~中盤という時期で、大藩としてキッチリ役割を果たしていたことが見てとれますね。
綱利が忠利の孫ということは、細川ガラシャから見てひ孫の世代。
あっという間ですね。
光秀の血がこうしたカタチで残っているのも、あまり注目はされないけれど歴史の流れを感じるところであります。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
細川忠利/wikipedia