北条氏康

左から父の北条氏綱・北条氏康・息子の北条氏政/wikipediaより引用

北条家

謙信や信玄と渡りあった北条氏康とは?関東制覇を進めた57年の生涯

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北条氏康
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快挙! 河越夜戦

晴氏とは義兄弟でもある氏康。「もう一度北条に協力してほしい」と翻意を促すのです。

しかし、これを挽回のチャンスと判断した晴氏は河越城の包囲を継続し、依然として大軍に包囲され続けました。

河越城を守っていたのは「地黄八幡」と称される猛将・北条綱成(つなしげ)たちです。

彼らは、数万の大軍に囲まれる圧倒的不利な状況にもかかわらず粘り強く戦い抜いており、氏康としては一刻も早く後詰(救援)に向かいたかったところでしょう。

懸念していたのは背後の今川です。

前述の通り、一度は敵対しながらも、再び同盟関係を結ぶことに成功させると、氏康は早速、河越城内の綱成らと連携をとります。

そして8万とも言われる大軍へ奇襲を仕掛けるのでした。

世に名高い【河越夜戦】です。

一説に【1万vs8万】という凄まじい劣勢を氏康は跳ね返し、北条氏はここで圧倒的な勝利を得ます。

戦の経過や展開についてはハッキリしない点も多く、詳しい解説は以下に譲りますが、この戦によって氏康が得た戦果は非常に大きく。

河越城の戦い(河越夜戦)
一万vs八万で劇的逆転!河越城の戦い(河越夜戦)北条がスゴすぎる

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例えば

◆重要拠点である河越地域の維持

◆上杉朝定の戦死による扇谷上杉家の滅亡

◆山内上杉氏に対する軍事的優位性の確立

などによって、北条氏の優位と関東上杉氏の衰退を明確にしたのです。

いわゆる「選択と集中」ですね。

確かに、河東地域の放棄は口惜しいものがあったでしょうが、関東平野の重要拠点を押さえた方が広域エリアを安定させられる。

河越の支配を成し遂げた氏康の手腕には、目を見張るものがありました。

 

関東上杉氏を殲滅

河越夜戦の結果、関東中央部での拠点を強化した氏康は、扇谷上杉氏の残存勢力と山内上杉氏への攻勢を強めます。

以下の地図をご覧ください。

北条氏綱時代の関東諸勢力/photo by 野島崎沖 wikipediaより引用

この地図は、父・北条氏綱時代の諸勢力図で、まだ河越城や岩付城(埼玉県さいたま市)などは両上杉氏の勢力下にありました。

河越城を中心に支配強化を果たした氏康は、この一帯の支配強化と、地図には無いさらに北方面への侵攻を模索します。

しかし、その矢先のことでした。

氏康が里見氏と抗争を繰り広げている隙を突かれ、旧扇谷家臣の太田資正が武蔵松山城(埼玉県比企郡)と岩付城を奪取。

資正は岩付城へ入り、武蔵松山城には上田朝直という人物が据えられます。

一進一退とはこのこと。

正念場であるこの局面で、氏康は上田朝直に対し調略をしかけ、あっさり武蔵松山城を奪い返します。

一方、勢いで城をせしめた太田資正は万事休す。

天文17年(1548年)のはじめに岩付城も再び北条氏の手に渡り、氏康は、旧扇谷上杉領を完全に掌握するのでした。

 

上野の奥へ進むとその先は……

扇谷上杉氏の殲滅を果たした氏康は、続いてもう一つの山内上杉氏攻略を本格化させます。

圧倒的な軍勢を背景として、山内上杉方の勢力であった小幡氏や藤田氏を離反させ、自身の配下に収めると、天文19年(1550年)には山内上杉氏のお膝元である西上野(群馬県)へ進軍。

秋の収穫を略奪するなどして、国力を徹底的に疲弊させます。

そしてそのまま、彼らの本拠である平井城(群馬県藤岡市)へ攻め込むほど奥地までの侵入を果たしていました。

凄まじいほどの進軍速度です。

氏康は、ここでいったん兵力を整え、いよいよ天文21年(1551年)、本格的な制圧作戦をスタートさせます。

まずは山内上杉氏が武蔵国に構えていた唯一の拠点である御獄城(埼玉県児玉郡)を攻め、見事に同城を落としました。

城には上杉憲政の嫡男である、まだ幼い龍若丸がおりましたが、非情にも氏康は処刑します。

この果断な処置は、北条氏にとっては正解でした。

というのも御獄城落城の一報は、周囲の武将たちに多大な精神的ショックを与え、上野地域や憲政の側近から次々と離反者が出たのです。

室町以来の由緒正しい名門を自負していた憲政にとってこれは屈辱以外の何物でもなく、しかし、さりとてこのまま抵抗を続ければ自身の破滅は明らか。

憲政は、味方が領有していた新田金山城(群馬県太田市)や下野足利城(栃木県足利市)といった拠点へ逃げ込み、再起を図ろうとしましたが、これらの城も氏康に従う勢力から攻撃を受けており、入城することすらかないません

もはや万事休す――。
重臣・長尾憲景が本拠とする白井城(群馬県渋川市)を経由して越後まで逃れ、関東上杉氏の没落はついに公のものとなりました。

関東上杉氏の打倒は、氏康だけでなく北条早雲(伊勢宗瑞)・北条氏綱という北条三代にとっての悲願。

かつて「他国の逆徒」として彼等に嘲笑された北条氏は、逆に上杉勢力を関東から駆逐したのです。

以後、憲政をかくまった長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻や、山内上杉方の残存勢力による抵抗を退けつつ、弘治2年(1556年)までには、かつての山内上杉旧臣らを北条に従属させることで動乱を収束させていきました。

さらに、永禄2年(1559年)までには、上野の国衆をすべて勢力下に収め、ここに上野国の支配を確立します。

北関東への覇権をも唱えるまでに成長したのです。

 

古河公方勢力へプレッシャー! 外甥を後継者とさせる

関東上杉氏の没落は、地域武士たちにとってショッキングな出来事でした。

これまで上杉を中心に構成されていた政治秩序は乱れ、その結果、古河公方の立場で権威を有していた足利晴氏は、氏康から強烈なプレッシャーを受け始めます。

もともと河越夜戦で氏康に敵対してしまって以降、晴氏との良好な義兄弟関係は崩れつつありました。

氏康も、さすがに妹の夫・晴氏を攻め滅ぼしたりはしませんでしたが、苦しい局面で攻撃してきた義弟に対し「よくもやってくれたな……」という態度になります。

そして冷え込みつつあった両者の関係は天文21年(1552年)、ついに限界を迎えます。

氏康は、すでに晴氏の嫡男として古河公方足利家を継承する予定であった足利藤氏を廃嫡に追い込むと、自身の妹と晴氏の間に生まれた梅千代王丸(後の足利義氏)を新たな後継者として定めたのです。

もちろん一連の「人事異動」が北条氏の意向によって行われたものであることは言うまでもなく、梅千代王丸が古河公方となることで、氏康は外甥の威光を背景に関東の諸勢力へ対峙しようと考えたのでしょう。

まるで平安時代に一世を風靡した藤原氏の摂関政治。

外戚の位置から氏康はさらなる権力を手にしようとしたのです。

ところが、です。
氏康の横暴によって廃嫡を余儀なくされ、人生を一変させられた「元嫡男」の足利藤氏からしてみれば、足利義氏の後継んだお看過できるものではありません。

彼らは天文23年(1554年)に氏康の指示を無視し、かねてからの本拠地である古河城へ勝手に入城して公然と反旗を翻しました。

小山氏や相馬氏、さらにはいまだに抵抗を続けていた旧山内上杉氏勢力からの支援を受け、最後の抗戦を試みたのです。

対する氏康は、自身の勢力だけでなく、公方家に仕えていた義氏らの旧家臣勢を味方として古河城を攻めました。

両者の力差は歴然であり、氏康はかつての協力者を猛然と打倒。

結果として足利晴氏は相模国波多野へ幽閉されてしまいます。

氏康にしてみれば「晴氏を含め反対勢力を一掃したかったが、こちらからは手を出しにくかった。それが謀反によって大義名分が転がり込んできた♪」と思っていてもおかしくないほど絶妙な権力一本化の好機でした。

以後、氏康と古河公方足利義氏による新たな政治体制が構築されていくことになったのです。

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