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【鶴岡八幡宮の戦い】
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鶴岡八幡宮は避けられない
そもそもなぜ、鎌倉を通ったのでしょう?
鎌倉から上陸して玉縄城を目指そうとすれば、どう考えたって鶴岡八幡宮は避けることができません。
地図を見ていただくのが一番わかりやすいのですが、鶴岡八幡宮から玉縄城までは、現在の道路で6km程度しか離れていないのです。
※赤い拠点が鶴岡八幡宮で、黄色の拠点が玉縄城(両者は直線距離で4km程度)
まあ、数百隻の大船団だっただけに、船着き場の確保が最も大変だったのでしょうね。
江の島辺りでも良さそうな気がしますが、西へ行けば行くほど北条勢力圏の色は濃くなっていきますし、北条氏としても、そういった海域には見張りを置くなどの警戒はしていたはずです。
「鶴岡八幡宮再建しようぜ!」
八幡原(川中島のハイライトになったといわれている所)にしても、八幡神に縁のあるところは戦が絶えません。
武家の神様なので当たり前といえば当たり前なのですけれども、にしても、鶴岡八幡宮は貧乏くじ引き過ぎな気がします。
源実朝の暗殺事件。
戦国期においては度重なる合戦。
関東大震災での社殿倒壊。
近年ではシンボルだった大銀杏が倒れてしまったり、度々災難の舞台になってきました。
一方で、それでも生き永らえているというのも凄まじい話ですよね。
後に、北条氏が主導して「鶴岡八幡宮再建しようぜ!」と言い始めたとき、里見氏も協力せざるを得なくなってます。
盗んだバイクで走りだした翌朝にバイクを返しにいくような恥ずかしさがありますな。
なお、北条氏綱の父にして、後北条氏の礎を関東に築いたのは、かの北条早雲です(北条氏を名乗ったのは氏綱から)。
伊勢宗瑞という室町幕府のエリート武士というのが今の見方で、浪人から成り上がったとかそういうワケではなさそうです。
よろしければ北条早雲の記事も併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
鶴岡八幡宮の戦い/wikipedia