永禄6年(1563年)9月18日は井伊直平(なおひら)の命日である。
井伊家19代の宗主・井伊直氏の子で、20代の宗主。
大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎の曽祖父にあたり、彼ら一族は大国・今川から常に不条理な圧力をかけられ、その中でも特に辛い思いをしてきたのが井伊直平だった。
母親や生年についてはハッキリしておらず、1479年生まれとも1489年とも伝わっており、永禄6年(1563年)に急死したため享年は75歳か85歳となる。
当時としては相当な長寿であり、結果、息子の直宗(21代)や孫の直盛(22代)、曾孫の井伊直親(直盛
戦国の世といえども、その心中は計り知れない苦渋に満ちていたであろう。
しかし、次々と宗主が亡くなる井伊家を支えたのも、ほかならぬ直平であった。
後裔に宗主の座を譲りながら、直平の考えは若い宗主たちに影響を与えたと思われ、今川家や義元を支えた寿桂尼と似たようなポジションだったと予想される。
あらためて直平の生涯を振り返ってみよう。
三期に分かれる井伊直平の生涯
井伊直平の人生は、大きく分けて3期に分けられる。
◆A期:国衆(国人領主)として、今川氏と戦っていた時期(黄)
◆B期:今川氏に負け、今川氏の監視下にあった時期(青)
◆C期:今川家臣として、今川氏の命令で出陣していた時期(ピンク)
以下にその様子を年表にまとめてみた。

では期ごとにその詳細を振り返ってみよう。
国衆としての直平(1504~1513)
永正元年(1504)に家督を譲り受けて20代宗主になると同時に、直平は他の国衆(国人領主)同様、領地経営に乗り出した。
「パクス・トクガワーナ」と呼ばれる天下泰平の江戸開幕から約100年前のことであり、時は戦乱まっただ中。
今川氏親との戦いが激しくなっており、それは1504年に宗主となる以前から続いていた。
むろん、戦いと同時に領地経営にも精を出しており、1507年には龍泰寺に領地3反を寄進するなどの記録が残されている。
今川氏親が同家の当主となるのはその翌年のこと。
地域の戦闘はますます激しくなり、1510年には今川方によって宝光庵が、1511年に井伊家の陣所が焼かれるなどの被害を受けると、その翌年1512年に井伊直平は斯波義達・大河内貞綱と共に志津城を攻撃。
戦闘はいよいよ激しくなるばかりで、さらに1513年に入ると今川氏親によって引馬城(後の浜松城)が攻め立てられ、城代の大河内貞綱はもろくも陥落してしまった。
続いて井伊城(三岳城)が落とされると斯波義達もまた退き尾張へ帰国してしまう。
これにて井伊家は今川の監視下に入るのであった。
今川監視下の時代(1513~1536)
1513年、井伊城(三岳城)が落ちる。
と、直平さらに井伊氏は、今川氏の監視下に入った。
このとき井伊谷を離れて避難していたとか、井伊直盛は今川氏の人質として駿府にいたなどの説もあるが、井伊直平が同時期に龍泰寺を建てていることからも、井伊谷に留まっていたと思われる。
ただし、三岳城(三岳山の頂上)から常に監視はされており、残念ながらこの時期の動向はハッキリとした記録がない。
「隙あらば、時が来れば、今川氏にリベンジしたい」とは考えていたハズだ。
今川家臣として活躍の時代(1536~1563)
1536年に今川家で義元が家督を継ぐと、井伊家に対する戦略の変化が生じた。
※以下は今川義元の事績まとめ記事となります
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今川義元は、東の後北条と縁を切り、北の武田と甲駿同盟を締結(後に後北条とも復縁して「甲相駿三国同盟」が結ばれる)。
敵は西の織田氏となり、おそらく義元の相談役・太原崇孚(たいげんそうふ)が、次のような考えを表明した。
「三河国と遠江国の“境目の衆”井伊氏とは和解し、確実に味方につけた方が良い」
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かくして井伊氏は今川家臣となり、歴代宗主は対織田の西征に参陣、後の田原城合戦や桶狭間の戦いで命を落とすことになる。
配下として従いながらも、おそらく直親(井伊直政の父)は誅殺されており、直平は今川家臣となった苦渋を味わい続けた。
氏真に反逆を疑われ、直後の出陣で不審な死
1560年桶狭間の戦いを経て、今川氏真が宗主になると、井伊家に新たな不幸が舞い降りる――。
『井伊直平公一代記』や祖山『井伊家伝記』『井伊氏系図』によると、1563年、氏真は織田信長征伐のために出陣。
軍の先頭が吉田(愛知県豊橋市)、最後尾の井伊直平隊が白須賀(静岡県湖西市白須賀)に宿陣していた時、折りからの強風で篝火が倒れ、井伊氏の陣はもちろん、白須賀の町が焼けてしまった。
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『これは井伊家の謀反だ』と軍議で判断されると、氏真は『前に織田、後ろに井伊の挟み撃ちでは勝ち目がない』と退却し、駿府の今川舘に直平を呼び出し問い糺す。
「今回の火事は反逆なのか?」
「そうではない。失火である」
「ならばその証に忠誠心を示せ。社山(やしろやま)城の天野を討て」
75歳(あるいは85歳)という高齢にもかかわらず出陣を命じられた直平。その負担たるや相当なものであったろう。
進軍の途中、直平は「有玉旗屋の宿」(現在の静岡県浜松市東区有玉南町畑屋の陣
死因については、敵の急襲とも、落馬とも、飯尾氏の妻(田鶴の方)による毒殺ともいわれている。
直平の墓
井伊直平の墓は、川名にある。
従者の大石作左衛門が川名に運び、鎧橋で鎧を脱がせて向山に埋めると、自らも追腹。
また、このとき側室(飯尾淡路守の娘)も殉死したと伝わっている。
直平が死ぬと、井伊家の男は幼い虎松(後の井伊直政)だけとなり、直平の遺言によって虎松元服(15歳)までは庶子家の中野直由が宗主代行(虎松の後見人)をすることになった。
しかし、間もなく直由が討死すると、井伊直虎が女ではありながら実質宗主の代行を務め、同時に虎松の後見人となる。
井伊直虎ならびに直政の活躍については、下記の記事をご参照いただきたい。
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【直平の墓碑銘】
正面
渓雲院殿前遠國司西月顕祖大居士覺儀
右側面
點眼偈
憶昔星隕幡谷里
到今士庶叫蒼天
渓雲漸霽西山月
遠顕祖光輝万年
背面
井伊共保公十三代遠江守直平公行年八十五
永禄六亥九月十八日出陣於八社山而俄於于
有玉□□谷薨去矣時従者神主屋舗作左衛門
竊負来□川名村而営辨葬儀導師渓雲寺二世
梅嶽春和尚也今玆十四世一道喝座元告官蒙
命再奉修造幽宮者也
奥山積翠軒龍水謹書
左側面
永禄癸亥九月十八日逝
井伊直平の菩提寺は川名の福満寺で、大檀那・次郎法師(井伊直虎)は梵鐘を寄進している。その銘文は、
大檀那 次郎法師
願主 瀬戸四郎右衛門
(中略)
永禄九丙午年霜月吉日 鋳之











