井伊直政

徳川家 井伊家

徳川四天王の井伊直政~武田赤備えを継ぎ 赤鬼と恐れられた42年の生涯

【人物概略:井伊直政

井伊直政は1561年2月、父である井伊直親の屋敷(浜松市祝田)で生まれた。

母は奥山朝利の娘・ひよ。

井伊直親が井伊家の当主となり今川方に殺されると、虎松(井伊直政の幼名)も命を狙われるなど、幼少期から過酷な環境で過ごす。

1568年には、井伊直虎今川氏真の徳政令命令を受け入れて出家するに伴い、虎松も龍潭寺へ。

母のひよ、祐椿尼(直虎の母)と一緒に同寺で暮らすが、井伊家を継ぐ貴重な男児・虎松は、それでも危険に脅かされ、浄土寺で匿われるなどの逃亡生活が続いた。

過酷な運命が一変するのが1575年。

鷹狩に出かけて上機嫌だった徳川家康への面会を果たし、それを機に仕官することになる。

かくして徳川家でお家再興を許された虎松は井伊万千代と名乗り、戦場や外交でも大活躍する。

例えば、本能寺の変直後には、家康の「神君伊賀越え」を助けて褒美に陣羽織を拝領したり、旧・武田家の家臣を率いて「赤備え」を結成すると、小牧・長久手の戦いでは激しい戦闘で大活躍し、一躍その存在を知られるようになった。

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三河武士の中では外様だった井伊直政であるが、死に物狂いで奮闘していると、酒井忠次本多忠勝榊原康政と共に「徳川四天王」の一人に数えられ、後に彦根藩30万石の藩祖となる。

関が原の戦い(1600年)における鉄砲傷がもとで1602年に死亡。

享年42であった。

※年表マトメはコチラから

【以下、本文へ】

 

井伊直政は井伊谷ではなく祝田生まれ

静岡県浜松市井伊谷の龍潭寺には、彦根城四百年祭のときに建てられた「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑がある。

平成19年10月29日に除幕されたもので、この地を訪れる観光客からは、時々「ここで生まれたんだぁ」という声が聞こえてくるが、井伊直政は、この井伊谷で生まれたのではない。

出生地は祝田(ほうだ)の井伊直親屋敷。

龍潭寺には以下のような案内板も設置されているが、あくまで「出世の碑」である。

井伊直政案内板

井伊直政案内板(全文は記事末に掲載)

では井伊直政は、いかほどの出世を遂げたのか?

もともと彼は、幼き頃に父・直親を殺され、長きに渡って逃亡生活を強いられた。

そして、井伊直虎の手助けもあって、家康の家臣になると同家内で瞬く間に大出世。その後は「徳川四天王」と簡単に語られがちだが、実はこれ、かなり凄いコトである。

身内の結束が強かった徳川家において、三河の譜代でもないのに国衆のポジションから30万石の大名にまで昇り詰めたのは稀有な例なのだ。

なぜ、そのようなスピード出世を叶えられたのか。

井伊直政石高の推移(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)

井伊直政石高の推移・300石から始まり30万石へ(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)

 

幼少期は親戚宅や寺をたらい回しにされた

井伊直政は、井伊家23代宗主・直親の子である。

母は、奥山朝利の娘・ひよで、彼女は井伊家の庶子家出身だった。

結婚後、五年目たっても子が授からなかった2人は、龍潭寺の南渓和尚に祈祷を頼んだり、祝田の大籐寺(後に直親の菩提寺)ご本尊「世継千手観音像」に祈願したりしていると、願いが叶ったのかようやく嫡男を授かる。

幼名「虎松」。
後の井伊直政である。

※なお、これにより大藤寺は「子授けの寺」として賑わうことになる

世継千手観音像(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)

世継千手観音像(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)

後世の贋作である可能性は否めないが「今川家分限帳」によると、井伊直政は、計4万石の所領を父・直親(伊井肥後守)と井伊宗主の直盛から引き継ぐハズだった。

井伊宗主とは直虎の父・井伊直盛のことであり、井伊直虎の実父でもある。

しかしこの直盛が桶狭間の戦い(1560年6月)で殉死すると、同家と井伊直政の運命はにわかに狂い始めた。

まず父の井伊直親が23代宗主になった途端

──徳川家康と内通している――

と讒言され、今川氏に誅殺されてしまったのだ。

このとき虎松はまだ2歳。

非情な戦国の世にならい、虎松にも父と同様殺害命令が下されながら、すんでのところで命を拾う。

どうやって命が救われたのか? 救出劇の真相については未だ不明だ。

というのも以下のように

「今川重臣・新野左馬助が引き取ると申し出た」

「鳳来寺へ逃げた(さらに信州までとも)」

2つの説があり、井伊直政の伝記には『幼少期は親戚宅や寺をたらい回しにされた』という曖昧な記述だけで済まされている。

たらい回しとはいかにも可哀想な幼少期だが、この苦難の経験があったからこそ後に大出世を果たせたのかもしれない。

 

桶狭間で死んだ夫のため、直虎・母が住んだ松岳院

以下の写真は松岳院跡地である。

松岳院とは、井伊直虎の母である千賀のことだ。

松岳院跡地

松岳院跡地

松岳院跡地案内板

松岳院跡地案内板

彼女は夫の死後、髪をおろして仏門に入り、松岳院という法号で龍潭寺境内に庵(いおり)を建て、亡き直盛の追善供養に勤しんでいた。

江戸中期に彦根の絵師が描いた龍潭寺境内図には、松岳院の建物も記されている。

そして桶狭間から8年後の1568年。

今川氏真の命令で、井伊谷領内での徳政令を受入れた直虎が出家して「祐圓尼(ゆうえんに)」と名乗り、龍潭寺に入ることで命を許されると、祐椿尼(ゆうちんに)と名乗っていた母と共に松岳院での生活を開始。

さらに虎松と、虎松の母ひよも加わり、女子供ばかりで心細い井伊の生き残り4名は、この寺の敷地内で、静かに息を殺して暮らすしかなかった。

このとき、井伊直政の母はお地蔵さまを造り、ひそかに境内に祀(まつ)リ、その傍らに神木「なぎ」を植え、我が子の安泰を念じる日々だったという。

「梛の木」と「子育て地蔵」

「梛の木」と「子育て地蔵」

「梛の木」案内板

「梛の木」案内板(※1 記事末に掲載)

 

鷹狩りの家康を見計らってドラマな演出を

松岳院での安寧は、しかしすぐに終わりが来る。

井伊直虎が地頭でも井伊谷城主でもなくなって、小野政次が井伊谷を領すると(要するに「下克上」を為すと)、直虎や虎松は殺されることになったのだ。

直虎は、以前のように「次郎法師」という僧名ではなく、もう還俗は許されない「祐圓尼」という尼の名で出家し、虎松もまた「出家する」と偽って浄土寺へ逃げた。

それでも虎松は、更に危険を感じ、次に浄土寺の寺僧・珠源(「守源」とも表記)と共に鳳来寺へ逃亡している。

虎松がいたという鳳来寺の日輪院跡

虎松がいたという鳳来寺の日輪院跡

一方、家康は、井伊谷城を接収し、引馬城(後の浜松城)へ。

徳川にとっては、これが遠州進出への第一歩であった。このとき井伊谷城にいたのは直虎から所領を奪った小野氏であり、家康はてっきり井伊家が滅んでいたものと勘違いしたようだ。

そして天正1年(1573年)。

虎松の将来を見据えて、その保護に努めていた直虎・直虎母・虎松母は、南渓和尚と共にある決断に至る。

虎松を、ひよの夫・松下清景の養子とし、徳川家康に仕官させることにしたのだ。

虎松は14歳。

年齢的には十分であり、破竹の勢いの徳川家に仕えさせることは、井伊家再興のチャンスとしては願ったり叶ったりな環境だった。

むろんリスクもあるにはある。松下清景の養子になるということは、一時的にも井伊虎松から松下虎松になるということであり、名目上は井伊家が滅亡することである。

それでも他に妙手は考えられない。

そもそも家康に仕官できるかどうか。

これは大きな賭けであったが、ここで動いたのが他ならぬ井伊直虎であった。

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殊のほか鷹狩の好きな家康に狙いを定め、天正3年(1575)2月15日、初鷹野(その年の最初の鷹狩)に出たタイミングで、虎松をその前に差し出したのである。

このとき遠くからでも目立つように、虎松には直虎と実母・ひよであつらえた着物を身につけさせ、さらには直虎自筆の『四神旗』も持たせていた。

このドラマ的な演出は、見事に的を射た。

虎松は浜松城へ連れていかれ、むろん、このときの詳細な会話は残されていないが、滅びたと思っていた井伊家の跡取り男児が目の前におり、しかもそれは、かつて桶狭間の戦いで共に先鋒を努めた井伊直盛の親類であったことも家康の琴線に触れたであろう。

井伊直親の実子だと知った家康は、こう言ったと伝わる。

井伊直親の実子、取立不叶(取り立てずんば叶わじ)

【意訳】家臣として召し抱えないわけにはいかない

かくして再興を許された虎松は、これを機に「井伊万千代」と名乗り、同家の再興を叶える。

扶持は300石。
16人の同心衆も付けられた。

この優遇は、当日の家康の気分が良かったことに加え、井伊家が平安時代から続く名家(藤原庶子家)であるためと思われる。

徳川家康は源頼朝を尊敬し、愛読書は『吾妻鑑』であったから、井伊氏が鎌倉時代の「日本八介」であったことは、当然、知っていた。

新井白石『藩翰譜』には次のようにある(原文は記事末の※2に掲載)。

虎松(後の井伊直政)が15歳であった天正3年(1575)2月15日、徳川家康は、鷹狩のため浜松城を出た。

すると道端に控える虎松を見つける。

「面魂」(気迫あふれる顔付き)が尋常ではなく「普通の子ではない」と思って、「どのような素性の子か、誰か知っているか?」と尋ねると、「よく知っている人」(松下常慶か?)がいた。

「この子こそ、井伊家23代宗主・直親の遺児でございます」

そう虎松の素性を詳しく伝えると、「(徳川に内通して誅殺された直親の子とは)不憫である。儂に仕えよ」と言って仮採用してみる。

と、「さすがに、井伊家の子だけあって、頼もしい」と、頓(やが)て本採用した。

一方、『直政公御一代記』には次のように記されている(原文は記事末の※3に掲載)。

(家康は、虎松を)鷹狩の狩場から直に浜松城へ召し連れ、小姓に取り立て、御台所の前に仮の部屋を与えて、16人の同心衆を付けた。

その中に「金阿弥」という目付坊主(小姓の下で衣食の世話をする御城坊主。直政の家庭教師とされる)がいた。

この金阿弥は、後に「花居清心」(三河の「花井氏」であるが「井伊氏」に憚って「井」を「居」に変えたという)と改名し、300石の文官となり、直政が死んで直継が継ぐ。

と、お暇をもらって在所(三河)に引き籠っていたが、直孝の代には、月見の宴に度々参上したという。

 

本能寺の変では伊賀越えに貢献した井伊直政

家康へのお目通り叶って300石の扶持を得た万千代は、すぐさま頭角を表す。

その翌年「柴原(芝原とも)の戦い」で間者を討ち取り3,000石へ加増されると、更に田中城攻めの武功で1万石へ。

このままトントン拍子に5万、10万と増えるかと思ったらそれほどに甘いワケがなく、間もなく桶狭間に続く戦国時代の一大事変に直面してしまう。

【本能寺の変】だ。

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天正10年(1582)6月2日早朝、本能寺で織田信長明智光秀に討たれたとき、徳川家康は、井伊直政らと堺(大阪府堺市。語源は摂津・河内・和泉国の境)にいた。

よく知られる服部半蔵だけでなく井伊直政も同行していたのだ。

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伊賀国の険しい山道を経て、這う這うの体で岡崎城へたどり着いた行軍は、一般的に「神君伊賀越え」と呼ばれている。

ここで井伊直政は「孔雀尾具足陣羽織」(与板歴史民俗資料館蔵)を拝領した。

再び『直政公御一代記』を見てみよう(※4 原文は記事末に掲載)。

天正10年(1582)、武田氏が滅んだ。

徳川家康は、井伊万千代(22歳。この年の11月に元服して「直政」と改名)ら34名と堺見物をしていたが、本能寺で信長が明智光秀に討たれたことを知る。

家康一行は、伊賀国を経て伊勢国に向かった。

途中、住民の一揆が起きたが、万千代と長谷川秀一が計略を以って宇治田原の山口城主・山口甚介秀康、続いて信楽小川の小川城主・多羅尾光俊を味方にしたので、一行は伊勢国白子(三重県鈴鹿市)にたどり着くことができた。

そこからは海路を行き、岡崎城に無事帰還できたのである。

この間、万千代は、昼夜を問わず、家康を警護したという。

そして明智光秀が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって討たれると、6月27日、信長の跡継ぎを決める話し合いが清州城で持たれた。

【清州会議】である。

信長の嫡男・織田信忠も二条新御所で死亡していたので、後継者は二男の信雄か、あるいは三男・信孝が妥当かと思われたが、秀吉の後押しで嫡孫・三法師(後に織田秀信)に決定。

この会議に徳川家康は参加していない。織田信長の死により空白地帯となった旧武田領で、北条氏直と争っていたのだ。

天正壬午の乱】である。

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この争いは、本能寺の変と同年の10月29日、徳川と北条で講和が結ばれ、約5ヶ月の後に終結した。

徳川は、三河・遠江・駿河国に加え、織田遺領の甲斐・信濃国を確保し、五ヶ国を領有する戦国大名となったのである。

このとき徳川側の交渉人(ネゴシエーター)に選ばれたのが井伊直政で、この功により4万石へと加増。

ちなみに、北条側の交渉人は北条氏規(駿府での人質時代、家康の家の隣の家に住んでいて、家康とは仲良がよかった人物)であった。

井伊直政は11月、まるで井伊直虎の死を待っていたかのように元服し、井伊家第24代宗主「直政」と名乗ると、松平康親の娘(徳川家康の養女)・花(後の唐梅院)と結婚した。

※結婚については、天正12年(1584)説もあり

 

小牧・長久手の戦いで見せた「突き掛かり戦法」

さて、「清州会議」で三法師の後見人となり、明智光秀を討った豊臣秀吉の存在感が増すと、疎外された信長の二男・織田信雄は、家康との同盟を選んだ。

秀吉 vs 信雄・家康の戦い。

天正12年 (1584)3月に起こったこの合戦を【小牧・長久手の戦い】という(長久手は「長湫」とも表記)。

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天正12年3月13日、池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り、犬山城を占拠すると、家康(徳川軍)は3月15日小牧山城へ。

以後、睨み合いの膠着状態が続き、先に動きを見せたのは羽柴軍であった。

「三河中入」という作戦を決行したのである。

三河中入と長久手の戦い(岩崎城の案内板)

三河中入と長久手の戦い(岩崎城の案内板)

「三河中入」とは、家康不在の岡崎を襲って後方撹乱するという作戦であり、その軍勢は以下のような規模であった。

◆三河中入2万人の内訳

※羽柴軍は全体で15万人

第一隊:池田恒興(6000人)

第二隊:森長可(3000人)

第三隊:堀秀政(3000人)

第四隊:羽柴秀次(8000人)

徳川方の重要拠点を衝くべく、先頭を進んだ池田恒興が岩崎城(愛知県日進市)で戦っていた時(「岩崎城の戦い」)、最後尾の羽柴秀次隊は、白山林(名古屋市守山区~尾張旭市)で休息しており、そこへ家康軍の奇襲が襲いかかった(「白山林の戦い」)。

が、羽柴秀次隊の前にいた堀秀政隊がすぐさま引き返して、徳川軍を討つと(「桧ヶ根の戦い」)、しかしこれが羽柴軍唯一の勝利となり、以後は敗戦が続くことになる。

織田・徳川連合軍の本隊は、色金山(長久手市岩作色金)に入り、そこで別働隊の戦勝と敗退を知った。

そして岩作から富士ヶ根へ移ると、羽柴秀次隊は家康の馬印である金扇を見て、「不利だ」として北へ逃げる。

と、池田・森隊は岩崎城から引き返し、富士ヶ根から前山に移った織田・徳川連合軍との間で「長久手の戦い」が繰り広げられた。

井伊直政像(JR彦根駅前)

井伊直政像(JR彦根駅前)

井伊直政率いる「井伊の赤備え」が森長可の隊と激突。

水野勝成(徳川内では井伊直政と並び称される勇将)の部隊が鉄砲で長可を討ち取ると織田・徳川軍の旗色が優勢となり、最終的には織田・徳川連合軍が勝利。

※森長可と池田恒興は安藤直次隊が討ち取ったという説も

「突き掛かり戦法」(先鋒としてがむしゃらに突撃し、敵の陣形を崩すという過激な戦闘方法)をとった井伊直政は、この戦いで「井伊の赤鬼」として名を揚げ、秀吉の後継者と目されていた羽柴秀次は名を下げる。

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翌天正13年(1585)、 25歳となった井伊直政は、前年の小牧・長久手の戦いの武功を評価され、6万石に加増となった。そして……。

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