早川殿

早川殿/wikipediaより引用

今川家

北条から今川へ嫁いだお姫様・早川殿~今川滅亡後はどうしていたのか

慶長18年(1613年)2月15日は早川殿の命日。

今川氏真の正妻であり、実父は北条氏康というお姫様でもあります。

大河ドラマ『どうする家康』で志田未来さんが演じていた「糸」を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。

あの作品では、夫の氏真から「足手まといめ!」と罵られるシーンが印象的でしたが、史実の早川殿も酷い扱いを受けていたのか?というと、そんなことはないでしょう。

彼女は血筋的にも今川・北条の間でトップクラスであり、劇中であんな理不尽な扱いをされたのが不思議なほど。

では史実では一体どんな生涯だったのか?

夫の今川氏真と共に長寿をまっとうした、早川殿の軌跡を振り返ってみます。

 

北条と今川をつなぐ

前述の通り、早川殿は相模の戦国大名・北条氏康の娘です。

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生年は天文15年(1546年)から天文17年(1548年)あたりと推測。

夫の今川氏真が天文7年(1538年)生まれですので、おおよそ一回り下であり、徳川家康は天文11年(1543年)ですから同年代になりますね。

早川殿の生母は、長らく不明とされてきました。

しかし近年は、氏康の正室である瑞渓院(ずいけいいん)が母ではないか?と有力視され、

◆早川殿の両親

父:北条氏康

母:瑞渓院

その場合、早川殿は血筋的に北条家でも今川家でも重要な姫となります。

なぜなら母の瑞渓院も、今川氏親と寿桂尼の間に生まれた、今川家でトップクラスの女性だったからです。

◆瑞渓院の親兄弟

父:今川氏親

母:寿桂尼

兄弟:今川氏輝・今川義元・今川彦五郎他

この辺、アタマの中が混乱しそうですので、よろしければ以下の系図をご覧ください。

早川殿は北条氏康の娘でありつつ、母方をたどると今川家でもトップの血筋だったんですね。

しかも今川氏真とはいとこ同士であり、今川と北条が、数代にわたって強い関係にあったことがよくわかる婚姻でもありました。

瑞渓院は、北条家でも敬愛されるゴッドマザーのような存在感があります。

その娘である早川殿と夫・氏真(瑞渓院から見て甥っ子)が、武田信玄と徳川家康に攻められ相模へ逃げてきたならば、あたたかく受け入れても全くおかしくありません。

歴史は、母方の血筋も考慮すると立体感をもって見えてきますし、夫婦の関係を考えるうえでも興味深いものがあります。

『どうする家康』では、この逃亡場面で氏真が糸(早川殿)に向かって「足手まといめ!」と罵っていたのですが、さすがにそんな関係性ではないんですね。

 

豪華な花嫁行列で、今川氏真に嫁ぐ

駿河の今川と相模の北条は、長く姻戚関係でありました。

その起点を遡ると伊勢盛時(北条早雲)の姉妹である北川殿が、今川義忠の正室となったことがあげられます。

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この夫妻の子・今川氏親が、義元の父であり、氏真の祖父にあたりますね。

しかし北条と今川の両家では、常に和平が保たれていたわけではありません。

早川殿が生まれたころ大きな亀裂が入っています。

【第二次河東一乱】です。

いくら姻戚関係があっても領土が接する戦国大名となれば、衝突は宿命ともいえる。今川義元と北条氏康という両雄が争う中、甲斐の武田信玄も介入してきました。

その結果【甲相駿三国同盟】が結ばれ、その縁を強めるためにも、幼い今川氏真と早川殿の婚礼が定められたのでした。

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天文23年(1554年)、早川殿は氏真の許に輿入れします。

相模から駿河へ向かう婚礼の行列はにぎにぎしく、それは美しいものだったと伝わります。沿道には多くの見物人が集まり、見事なまでの行列を一目見ようと押しかけた――。

このとき氏真は17歳で、早川殿がその一回り下だとすれば、まだ7、8歳の女児ということになります。

夫妻の間に生まれた子は、婚儀から長い時間を経てからでしたが、年齢を考えれば妥当なんですね。

しかし、幼い早川殿が嫁いでから6年後、悲劇が今川家を襲います。

永禄3年(1560年)5月19日、【桶狭間の戦い】で今川義元が討ち取られたのです。

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偉大なる義父を失った早川殿。

永禄4年(1561年)には、徳川家康が今川氏と断交し、織田信長と同盟します。【清洲同盟】と呼ばれ、今川にしてみれば、育てた恩を仇で返されたように思えたかもしれません。

それから7年後の永禄10年(1567年)頃、早川殿に長女が生まれます。

この娘は後に吉良義定に嫁ぎますが、問題は翌年の永禄11年(1568年)です。義元死後の今川家を支えてきた寿桂尼が亡くなってしまいました。

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結果、早川殿が所領の一部を継いでいますが、この好機を武田信玄が見逃すわけがありません。

【桶狭間の戦い】で義元が織田信長に討ち取られて以来、今川家を保つべく、政治を担ってきた寿桂尼です。

いわば女戦国大名であり、そんな彼女の死は、今川を潰す好機と捉えられてもおかしくありませんでした。

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