早川殿

早川殿/wikipediaより引用

今川家

氏真の妻・早川殿(糸)は夫と共に長寿を全う~どうする家康志田未来

大河ドラマ『どうする家康』で、志田未来さんが演じた糸(早川殿)が不憫だ。

武田信玄徳川家康から同時に攻め込まれるだけでなく、逃亡の際、夫の今川氏真から「足手まといめ!」と邪魔者扱いされるのがあまりに非道で見てられない――。

ドラマの放送終了後にはそんな声も聞かれましたが、あの描写では、史実の早川殿がどんな存在だったのか?気になった方も少なくないでしょう。

結論から申しますと、彼女は夫から軽んじられるような立場ではありません。

血筋的には今川・北条の間でもトップであり、劇中であんな理不尽な扱いをされたのが不思議なほど。

では一体どんな人生を辿ったのか?

今川氏真と共に長寿をまっとうした、早川殿の生涯を振り返ってみましょう。

 


北条と今川をつなぐ

早川殿は、相模の戦国大名北条氏康の娘です。

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生年は天文15年(1546年)から天文17年(1548年)あたりと推測。

夫の今川氏真が天文7年(1538年)生まれですので、おおよそ一回り下であり、徳川家康は天文11年(1543年)ですから同年代になりますね。

早川殿の生母は、長らく不明とされてきました。

しかし近年は、氏康の正室である瑞渓院(ずいけいいん)が母ではないか?と有力視され、

◆早川殿の両親

父:北条氏康

母:瑞渓院

その場合、早川殿は血筋的に北条家でも今川家でも重要な姫となります。

なぜなら母の瑞渓院も、今川氏親と寿桂尼の間に生まれた、今川家でトップクラスの女性だったからです。

◆瑞渓院の親兄弟

父:今川氏親

母:寿桂尼

兄弟:今川氏輝・今川義元・今川彦五郎他

この辺、アタマの中が混乱しそうですので、よろしければ略式の系図をご覧ください。

 

早川殿は北条氏康の娘でありつつ、母方をたどると今川家でもトップの血筋だったんですね。

しかも今川氏真とはいとこ同士であり、今川と北条が、数代にわたって強い関係にあったことがよくわかる婚姻でもありました。

瑞渓院は、北条家でも敬愛されるゴッドマザーのような存在感があります。

その娘である早川殿と夫・氏真(瑞渓院から見て甥っ子)が、武田信玄と徳川家康に攻められ相模へ逃げてきたならば、あたたかく受け入れても全くおかしくありません。

歴史は、母方の血筋も考慮すると立体感をもって見えてきますし、夫婦の関係を考えるうえでも興味深いものがあります。

『どうする家康』では、氏真が糸(早川殿)のことを「足手まといめ!」などとあまりに酷いことを言ってましたが、とてもそんな関係性ではないんですね。

 


豪華な花嫁行列で、今川氏真に嫁ぐ

駿河の今川と相模の北条は、長く姻戚関係でありました。

その起点を遡ると伊勢盛時(北条早雲)の姉妹である北川殿が、今川義忠の正室となったことがあげられます。

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この夫妻の子・今川氏親が、義元の父であり、氏真の祖父にあたりますね。

しかし北条と今川の両家では、常に和平が保たれていたわけではありません。

早川殿が生まれたころ大きな亀裂が入っています。

【第二次河東一乱】です。

いくら姻戚関係があっても領土が接する戦国大名となれば、衝突は宿命ともいえる。今川義元と北条氏康という両雄が争う中、甲斐の武田信玄も介入してきました。

その結果【甲相駿三国同盟】が結ばれ、その縁を強めるためにも、幼い今川氏真と早川殿の婚礼が定められたのでした。

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天文23年(1554年)、早川殿は氏真の許に輿入れします。

相模から駿河へ向かう婚礼の行列はにぎにぎしく、それは美しいものだったと伝わります。沿道には多くの見物人が集まり、見事なまでの行列を一目見ようと押しかけた――。

このとき氏真は17歳で、早川殿がその一回り下だとすれば、まだ7、8歳の女児ということになります。

夫妻の間に生まれた子は、婚儀から長い時間を経てからでしたが、年齢を考えれば妥当なんですね。

しかし、幼い早川殿が嫁いでから6年後、悲劇が今川家を襲います。

永禄3年(1560年)5月19日、【桶狭間の戦い】で今川義元が討ち取られたのです。

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偉大なる義父を失った早川殿。

永禄4年(1561年)には、徳川家康が今川氏と断交し、織田信長と同盟します。【清洲同盟】と呼ばれ、今川にしてみれば、育てた恩を仇で返されたように思えたかもしれません。

それから7年後の永禄10年(1567年)頃、早川殿に長女が生まれます。

この娘は後に吉良義定に嫁ぎますが、問題は翌年の永禄11年(1568年)です。義元死後の今川家を支えてきた寿桂尼が亡くなってしまいました。

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結果、早川殿が所領の一部を継いでいますが、この好機を武田信玄が見逃すわけがありません。

【桶狭間の戦い】で義元が織田信長に討ち取られて以来、今川家を保つべく、政治を担ってきた寿桂尼です。

いわば女戦国大名であり、そんな彼女の死は、今川を潰す好機と捉えられてもおかしくありませんでした。

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