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【早川殿】
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徒歩で逃げる早川殿
永禄11年(1568年)12月、武田信玄が駿河を侵攻しました。
今川氏真も戦う意思を見せて信玄と対峙しようとするも、すでに国内の家臣団は調略されて戦にならず、逃げるほかありません。
早川殿も夫・氏真と共に遠江国の掛川城へ。
輿ではなく、徒歩で落ち延びるという屈辱的な逃走劇でした。
「娘が徒歩で逃げただと!」
これに激怒したのが北条氏康です。
信玄の容赦ない作戦に怒りが抑えられなかったのでしょう。
武田家との同盟を破棄して、信玄の宿敵である上杉謙信と【越相同盟】を結ぶと、氏康は七男を上杉家の養子として送り、その子は「景虎」と名乗ります。
後に上杉景勝と家督を争うことになる上杉景虎ですね。それはそれで興味をそそられますが、早川殿に話を戻しまして。
永禄11年(1568年)5月、今川家・北条家と徳川家の間で和睦が成立すると、早川殿は夫・氏真と共に実家の北条家に戻りました。
今川家は北条家の元に置かれると、駿河は北条領とされ、北条氏政は嫡子の国王丸を、早川殿と氏真の猶子とします。
ただし、この関係は夫妻に嫡男が生まれたこともあり、短期間で破棄。
氏真は、新たに築いた大平城に入る一方、早川殿は小田原近郊の早川に居を移しました。「早川殿」の名はここから来ているんですね。
このころの元亀元年(1570年)、早川殿は初の男子であり、氏真の嫡子となる今川範以(のりもち)を産みました。
男児ができて少しばかり先行きが明るくなった今川家……と思いきや、政情はめまぐるしく変わります。
翌元亀2年(1571年)、早川殿の父である北条氏康が亡くなると、跡を継いだ北条氏政は外交の方針転換を決め、再び武田と手を結びました。
【甲相同盟】の復活です。
結果、永禄7年(1564年) に生まれた早川殿の妹が武田勝頼に嫁ぎ、駿河が武田領とされたため、今川が領有する道は断たれてしまいました。
その2年後の元亀4年(1573年)、信玄は没します。
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死の前年に【三方原の戦い】で徳川家康を大いに破ったことが、猛虎最期の咆哮でした。
またも相模を去り、駿河へ
もはや駿河は今川家のものにあらず、しかも北条は武田との同盟を復活させた――そんな状況の中、早川殿と今川氏真はどうしていたのか。
夫妻はしばらく早川で暮らしていたことが確認できます。
しかし、程なくして二人は相模を去ります。
武田についた北条ではなく、織田信長ともども勢いを増す徳川家康のもとへ移ったのです。
天正元年(1573年)には家康の庇護に入りました。
早川殿は実家にとどまらず、家臣ともども氏真と行動をともにしています。
夫妻は駿府に暮らし、新たに3人の男子も生まれました。
氏真は上洛した折、信長と対面し蹴鞠を披露した記録が残されています。
家康の配下として天正3年(1575年)には【長篠の戦い】にも参戦しておりますが、ここで残されたのは戦功よりも駿河名勝を詠み込んだ和歌でした。
戦場で家康の心を慰めていたのかもしれませんね。
天正4年(1576年)に、氏真は牧野城を任されますが、一年ほどで解任されました。
武将としての氏真の人生はここで終わります。
しかし、それがかえってよかったのか。その後も二人には長い人生が続きます。
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