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【早川殿】
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徳川のもとで生き延びる道
北条ではなく徳川を選んだことは、夫妻が生き延びる術として正解でした。
天正10年(1582年)に武田勝頼は織田・徳川の侵攻により滅亡。
早川殿の妹である北条夫人とその子は、勝頼と共に生涯を終えました。
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信長の跡をついだ豊臣秀吉は、天正18年(1590年)、北条家の小田原城を包囲しました。
この猛攻の中、早川殿の母ともされる瑞渓院は城と共に自害したとされます。
早川殿の兄・氏政の自害により北条家は滅びました。
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残された北条氏直は家康のとりなしにより豊臣政権下での生き残りをはかるも、天正19年(1591年)に病死。北条領だった関東には、徳川家康が移封されます。
これを機に早川殿は夫と共に京都へ移りました。
早川殿と今川氏真の血統は
豊臣から徳川へ天下が移る中、夫妻は慶長17年(1612年)に京都から江戸へ居を移しました。
慶長12年(1607年)に亡くなった兄に代わり、二男・高久が夫妻の嫡男となっていました。
この高久は旗本品川家の祖にあたります。早川殿と今川氏真の血統は、高家として残ったのです。
夫妻は長寿を保ちました。
そして慶長18年(1613年)、早川殿がその生涯に幕を閉じると、翌慶長19年(1614年)、氏真も後を追うように没します。享年77。
早川殿が夫のおよそひとまわり下であったと推察すると、彼女も古希前後まで生きたと思われます。
彼女は、典型的な戦国時代の姫君に思えます。
豪華な婚礼の列で幼くして婚家に向かうも、敵の猛攻にさらされ、徒歩で逃げまどう。
流転を繰り返しながら、穏やかで長く生きることができました。
『どうする家康』では妻への悪態が目立った氏真ですが、こうして二人の軌跡をたどると、とても仲の悪い夫婦とは思えません。
まだまだ出番のチャンスはありそうですし、その描き方が良き方向へ修正されることを願いたいと思います。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
黒田基樹『北条氏康の妻瑞渓院』(→amazon)
有光友學『今川義元 (人物叢書)』(→amazon)
他