後藤又兵衛基次

黒田家

後藤又兵衛基次は黒田家随一の猛将だった!それがなぜ大坂の陣では豊臣方で討死?

2014年大河ドラマの『軍師官兵衛』と、2016年『真田丸』。

年代的に近い両作品には共通する登場人物がおりました。

織田信長豊臣秀吉徳川家康という、三英傑。

北政所や淀の方といった、秀吉の身内。

石田三成小早川秀秋ら、関ヶ原の武将たち。

その中で、異彩を放っていたのが後藤又兵衛基次でしょう。

『軍師官兵衛』で爽やかな若武者かと思ったら、『真田丸』では荒くれ感ギトギトな浪人衆。

関ヶ原から大坂の陣まで。いったい何があったのか?

今回は、慶長20年(1615年)5月6日に亡くなった彼の生涯をたどってみましょう。

※本稿では最も馴染みのある「又兵衛」で統一します

後藤又兵衛基次/Wikipediaより引用

 

後藤又兵衛基次・もとは小寺家臣の子

又兵衛は、永禄3年(1560年)、播磨国姫路近郊の神東郡山田村生まれ。

黒田官兵衛孝高(以下官兵衛)は天文15年(1546年)生まれですから、14才下になります。だいたい一回りといったところですね。

官兵衛の子である黒田長政は、永禄11年(1568年)で8才下。

父・後藤新左衛門は、もともと播磨別所氏の家臣で、のち小寺政職に仕えました。

小寺政職といえば、黒田官兵衛の主君でもあります。

ドラマ『軍師官兵衛』では片岡鶴太郎さんが演じられていたことでご記憶の方も多いでしょう。

後に官兵衛を裏切って荒木村重に売り、結局、滅ぼされてしまいます。

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黒田家で養われる

父を早くに失った又兵衛は、幼少期から官兵衛に養育され、その薫陶を受けて育ちます。

『軍師官兵衛』では、以下のようなシーンがありました。

官兵衛の薫陶を受けた又兵衛

その又兵衛が、官兵衛の実子である長政にダメ出し

長政、キレる

長政の代になって黒田家を出奔しますので、まぁ長政とは色々あったに違いありません。

ドラマでも、長政に対して「父上ならそんなことしない」とダメ出しする又兵衛は、ちょっとイラッとしておりました。

史実でも、まるで父であるかのように官兵衛を慕っていた又兵衛ですが、黒田家が最も辛いときに裏切るような行動を取ります。

 

「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」

天正6年(1578年)、官兵衛は織田信長に背いた荒木村重によって、有岡城に幽閉されてしまいます。

このとき、残された官兵衛の夫人・櫛橋光、そして黒田家家臣一同は結束を強めます。

主君がどうあれ、我々はしっかり留守を守ろうというスクラムです。

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しかしこのとき、誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒み、又兵衛もこれに従うのです。

又兵衛、このときまだ二十歳前。

父は病死しており、伯父の意向には逆らえなかったのでしょう。

しかし、そんな言い訳が通じるわけもありません。

伯父ともども、又兵衛は一族追放処分を受けてしまいます。

又兵衛は、豊臣秀吉の配下であり、マンガ『センゴク』でも知られる仙石秀久に仕官しました。

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ちなみにこの官兵衛の幽閉時、当時まだ松寿丸と名乗っていた長政が、大変な目に遭っております。

村重と共に官兵衛も織田を裏切ったとみなされ、その子までもが謀反人として首を要求されたのです。

このときは、官兵衛の盟友とされる竹中半兵衛の機転により、松寿丸は一命をとりとめております。

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ゆえに又兵衛に対しては官兵衛が許したとしても、長政として釈然としないのも仕方ありません。

「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」

そんな風に思うほうがむしろ自然ではないでしょうか。

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