前田利家

前田利家像(金沢城公園・兼六園下交差点)

前田家

信長に追放されたこともある武闘派・前田利家~槍の又左62年の生涯

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赤母衣衆として、常に信長の側にいて

無事に帰参を許された前田利家は、その後、織田家の主な戦いに参加していきます。

斎藤龍興を稲葉山城から追放し、岐阜城とあらためた【美濃攻め】に始まり、伊勢への侵攻や、浅井長政朝倉義景らとの戦い。

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野田城・福島城の戦い】でも本願寺相手に戦功を挙げておりますが、その割に、他の合戦であまり大活躍の話が聞かれないのは、前田利家が信長の馬廻衆として、主君のすぐ側で旗本を率いていたからと目されております。

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一番槍を狙って敵に突撃するような立場ではなかったんですね。

なお、この期間の詳しい合戦の話は、織田信長のマトメ記事に詳しいので、以下、よろしければご覧ください。

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そして、信長が岐阜に本拠地を移動した1567年から約10年後、利家にとっては運命の潮目が変わります。

天正三年(1575年)から、不破光治・佐々成政らと共に、北陸方面の責任者・柴田勝家の目付役として着任するのです。

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不破・佐々・前田の三名は、府中三人衆とも呼ばれました。

佐々成政と前田利家は、【長篠の戦い(1575年)】で共に鉄砲奉行として活躍しており、越前でも同じエリアを府中三人衆で信長の代官のような役割で統治しております。

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そして勝家の目付役も請負ながら、北陸方面軍での戦いに参加していくのです。

元朝倉家臣団のドタバタから発生した【越前一向一揆】は、すでに信長が出陣して平定しており、次は加賀へ。

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一進一退を繰り返しながら、徐々に、諸衆を攻略していきました。

しかし、そう簡単にことは進みません。越後から最強の敵が現れるのです。

そう、上杉謙信です。

 

軍神に襲われフルボッコにやられる

織田家の加賀侵攻に対し、当初、謙信は一向一揆を扇動するなどして対抗しておりました。

上杉家は北陸方面だけに注力すればよいのではなく、信濃の武田や上野の北条など、強敵と接するエリアが多かったからです。

が、その状況も武田信玄の死などにより変わりつつありました。

そして1577年、ついに柴田勝家率いる織田家の北陸方面軍とぶつかりました。

手取川の戦い】です。

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詳細は上記の記事に譲りますが、簡単に言うと

「味方を助けるため七尾城に向かっていたら城が陥落しちまった。仕方ないから引き換えしたら、手取川を渡ったところで軍神に襲われて木っ端微塵にされたぜ」

というものです。

織田家としては消化不良の敗戦だったんですね。

もともとこの合戦は、援軍に来ていた豊臣秀吉がいきなり戦線離脱をするなど、最初から雲行きの怪しい展開でした。

いずれにせよ、この手取川の戦いは柴田勝家の合戦という印象もありますが、前田利家も参加しており、おそらくや軍神の恐怖と屈辱を味わったことでしょう。

※松任城のすぐ南にある手取川が主戦場となった手取川の戦い

 

信玄に続き謙信も亡くなる信長の強運

織田信長は実力も凄いが運もハンパねぇ。

それを思わされるのが武田信玄の死のタイミングであり、そしてそのライバル上杉謙信でありましょう。

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手取川の戦いでフルボッコにやられたその翌年の1578年、軍神と恐れられた謙信が突如亡くなるのです。

トイレで脳出血を起こしたと目され、跡継ぎも決めないままの死亡だったため上杉家では内紛が勃発し(御館の乱)、織田家にとっては最高の展開を迎えました。

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そうは言っても織田家も決して順風満帆ではありませんでした。

1578年、有岡城の荒木村重に突如裏切られ、前田利家も同城への攻撃参加を命ぜられたのです。

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前田利家は、いったん北陸を離れ、有岡城の包囲戦や三木城(播磨)の戦いに駆り出されます。

そして、その翌年に荒木村重が城を脱出し、有岡城の戦いが終わると、今度は柴田勝家と共に加賀平定に尽力し、無事にこれを平定します(1580年)。

合戦ばかりが続く織田家に、信長がご褒美のイベントを用意したのは、その翌年、天正九年(1581年)のことです。

織田家の各武将たちが着飾り、高価な名馬に乗って、京都の街をパレードする【京都御馬揃え】が開催されました。

前田利家は、これに越前衆の一人として参加。

名実ともに織田家の重臣として存在感を放ち、同年8月には、信長から能登一国を与えられて大名の仲間入りを果たしました。

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能登入りして七尾城を築城した後も、攻撃の手を緩めず、6月3日には柴田勝家や佐久間盛政らと共に魚津城を陥落(魚津城の戦い)。

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さらなる作戦を講じているところで、その一報は届けられました。

本能寺の変です。

 

本能寺直後は北陸で動けなかった

明智光秀が織田信長を討ったことで有名な本能寺の変。

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当然ながら、北陸方面の諸将にも迅速かつ的確な判断が迫られました。

元々、北陸方面に厚い体制が敷かれていたのは、越後の上杉家に備えるためです。

謙信はおらず、御館の乱で一度は分裂していた同家も、上杉景勝直江兼続のもと再び家中はまとっており、将兵の忠誠心は決して低くはありませんでした。

景勝も、自ら討ち死にする覚悟で織田家との対決に臨んでいました。

そんなに気合の入っていた上杉家の面々が、もし信長の急死を知ったとしたら……どうなるかは火を見るより明らかですよね。

攻守どころか形勢逆転さえ見えている状況の中、勝家の甥である柴田勝豊・佐々成政・佐久間盛政などが仲違いをしてしまったといわれています。

また、勝家と成政の間にも、剣呑な空気が流れていたようです。

その間に立って仲裁したのが、前田利家。

結局、利家は能登の一揆勢力や反織田家の諸衆の動きに囚われ、その場から動けずに、明智光秀は山崎の戦いで滅びるのでした。

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本能寺の変から11日後、6月13日のことです。

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