加賀百万石と言えば前田利家――。
天文7年(1539年)12月25日に誕生し、信長・秀吉と共に大出世を遂げた大大名であり、若き日は猛々しい武闘派武将であり、まさしく戦場を駆け回るタイプでした。
その頃の利家をざっと三行でマトメますと……。
【若き日の前田利家】
・信長側近のエリート集団「赤母衣衆」を引っ張る
・信長お気に入りの茶坊主をたたっ斬る→謹慎
・謹慎を解いてもらうため戦場で敵の首を取りまくる
いかがでしょう?
この三行マトメだけ読むと「もしかして暴れん坊タイプかーい!」という印象を受けると思います。
では次は前田利家の生涯を、三期でマトメてみたいと思います。
信長に始まり、勝家、秀吉――と、まさに織田家の超中心人物たちと共に過ごしてきたことがご理解いただけると思います。
いわば天下統一事業を常に補佐してきたわけで、彼らに好かれた理由は何だったのか?
前田利家とはいかなる人物だったのか?
62年の生涯を追ってみました。
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前田利家 若い頃は信長とLOVEな関係!?
前田利家は天文五~天文七年頃(1536~1538年)、尾張国愛知郡荒子村(名古屋市中川区)で生まれました。
生涯深い付き合いとなる豊臣秀吉とは、同い年かごくごく近い生年です。
父・利春(利昌)が織田弾正忠家に仕えていたため、利家も幼いときから織田信長に仕えました。
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長じてからの利家は推定182cm、かつ細身の美丈夫だったといわれているため、おそらく子供の頃から目を引くような容姿だったのでしょう。
いつ頃からなのかは不明ですが、信長と衆道関係にありました。
これは後年になって本人が認めているため、事実と思われます。日頃の行いもさることながら、そういう意味でも信長の目に留まったのでしょうね。
初陣は天文二十一年(1552年)【萱津の戦い】です。
元服前ながら、自ら朱色に塗った目立つ槍を振るい、首を挙げてきたといわれています。
背丈も当時としては相当な大きさなため、力自慢でもあったでしょう。ゆえに「槍の又左」とも呼ばれておりますよね。
実際、初陣を終えた後に信長から「犬千代は肝に毛が生えておる」と称賛された程の戦いぶりだったとか。
萱津の戦いは以下に詳細がございますのでよろしければ併せてご覧ください(記事末にもリンクございます)。
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右目の下に矢を受けたまま敵陣へ(まるで夏侯惇)
初陣から4年後の弘治二年(1556年)。信長が弟の織田信勝と軍事衝突しました。
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【稲生の戦い】と言います。
鬼柴田として恐れられる柴田勝家が、まだ信勝派だった時代で、前田利家は信長サイドで戦いました。
このときの活躍が圧巻です。
右目の下に矢を受けながらも、そのまま敵陣に飛び込んだといいます(まるで夏侯惇)。しかも、その矢を射た本人を討ち取ったのだとか。
利家の勇猛さが窺える話でありましょう。
もちろん、これも信長に大いに褒められ、味方を鼓舞することになりました。
「利家はそのまま、矢を抜かずに首実検に参加していた」という話もあるのですが、さすがにちょっと信じがたいですね。このとき隻眼になったという説もあるのですが、定かではありません。
しかし、活躍したのは間違いない話で、今回の功績で加増され、利家は初めて自分の家臣を召し抱えることができました。
そのうちの一人・村井長頼は、要所要所で利家と前田家の窮地を救うことになります。
なお、稲生の戦いの詳細もまた以下にございますので、興味のある方はご確認を。
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茶坊主の捨阿弥を信長の前でなで斬り!
その、まつ(篠原家)と結婚したのは永禄元年(1558年)のことです。
二人の母が姉妹、つまり前田利家とまつはイトコ同士であり、結婚当初から円満な夫婦だったようです。翌年にはさっそく子宝に恵まれています。
しかし程なくして、公私共に順調に見えた利家を、思わぬトラブルが襲うのです。
信長の側近くに使える茶坊主の拾阿弥。
この男が、利家の笄を盗み、更にはあろうことか利家を侮辱したのです。
笄というのは髪を整えたり、髪型を崩さずに頭皮をかくための道具です。利家は若い頃から傾奇者としても有名でしたので、身だしなみには特に気を使い、愛用していたのでしょう。
しかも、このとき盗まれたのは、まつの父・篠原主計の形見の品でもありました。利家にとっては、二重に大事なものだったのです。
当初、利家は怒りをこらえて信長に訴えました。
なぜか信長は拾阿弥を咎めることはせず、さらに佐々成政までもが拾阿弥の肩を持ったため不満と怒りは膨らんでいくばかり。
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そしてとうとう、拾阿弥を自分の手で斬り捨ててしまうのです。しかも信長の目の前で斬ったといわれていますから、当てつけもあったのでしょう。
当然、信長は大激怒!
一時は利家を死罪にしようとして、他の家臣たちになだめられ、出仕停止に留めておくこととなりました。すると……。
桶狭間で首3つ さらには森部の戦いで……
たとえ命が助かっても、武士は武功を立てて家臣や家族を養わなければなりません。
出仕停止は、いわば無職状態。生活は困窮します。
前田利家はなんとか許しを得るべく、密かに信長の戦に参加し、功績を挙げようとしました。
例えば、あの【桶狭間の戦い】に参加したときには敵の首を3つもとる大殊勲。
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それでも許されず、今度は【森辺の戦い(森部の戦い)】で足立六兵衛という武将の首を討ち取ると(美濃では「首取り足立」として知られていた)、ようやく帰参が許されます。
しかも新たな所領も与えられました。
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言葉で説明してしまいますとあっという間ですが、謹慎から復帰までにおよそ二年間。
子供も生まれていますので、妻のまつも相当の苦労をしたでしょう。
利家は、信長に勘当される前から「赤母衣衆」という織田家の側近エリートに選ばれていた可能性があり、普通に出世していれば生活苦などとは無縁のはずでした。
そんなこともあってか、利家は生涯、この二年間のことを教訓としていました。
「落ちぶれたときに声をかけてくれる者こそ、本当に信用できる」
おそらくや豊臣秀吉もその中の一人でしょう。さらには加藤家勝という武将にもお世話になっていたとか。
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また、利家は後に自ら算盤を用いて計算もしておりました。
それもこの二年間で、相当お金に苦労したからだそうで……だから本ページトップのイラストでも左手に算盤を持っているんですね。
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