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【前田利家】
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桶狭間で首3つ さらには森部の戦いで……
たとえ命が助かっても、武士は武功を立てて家臣や家族を養わなければなりません。
出仕停止は、いわば無職状態。生活は困窮します。
前田利家はなんとか許しを得るべく、密かに信長の戦に参加し、功績を挙げようとしました。
例えば、あの【桶狭間の戦い】に参加したときには敵の首を3つもとる大殊勲。
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それでも許されず、今度は【森辺の戦い(森部の戦い)】で足立六兵衛という武将の首を討ち取ると(美濃では「首取り足立」として知られていた)、ようやく帰参が許されます。
しかも新たな所領も与えられました。
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言葉で説明してしまいますとあっという間ですが、謹慎から復帰までにおよそ二年間。
子供も生まれていますので、妻のまつも相当の苦労をしたでしょう。
利家は、信長に勘当される前から「赤母衣衆」という織田家の側近エリートに選ばれていた可能性があり、普通に出世していれば生活苦などとは無縁のはずでした。
そんなこともあってか、利家は生涯、この二年間のことを教訓としていました。
「落ちぶれたときに声をかけてくれる者こそ、本当に信用できる」
おそらくや豊臣秀吉もその中の一人でしょう。さらには加藤家勝という武将にもお世話になっていたとか。
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また、利家は後に自ら算盤を用いて計算もしておりました。
それもこの二年間で、相当お金に苦労したからだそうで……よほどキツかったのでしょう。
赤母衣衆として、常に信長の側にいて
無事に帰参を許された前田利家は、その後、織田家の主な戦いに参加していきます。
斎藤龍興を稲葉山城から追放し、岐阜城とあらためた【美濃攻め】に始まり、伊勢への侵攻や、浅井長政・朝倉義景らとの戦い。
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【野田城・福島城の戦い】でも本願寺相手に戦功を挙げておりますが、その割に、他の合戦であまり大活躍の話が聞かれないのは、前田利家が信長の馬廻衆として、主君のすぐ側で旗本を率いていたからと目されております。
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一番槍を狙って敵に突撃するような立場ではなかったんですね。
なお、この期間の詳しい合戦の話は、織田信長のマトメ記事に詳しいので、以下、よろしければご覧ください。
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そして、信長が岐阜に本拠地を移動した1567年から約10年後、利家にとっては運命の潮目が変わります。
天正三年(1575年)から、不破光治・佐々成政らと共に、北陸方面の責任者・柴田勝家の目付役として着任するのです。
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不破・佐々・前田の三名は、府中三人衆とも呼ばれました。
佐々成政と前田利家は、【長篠の戦い(1575年)】で共に鉄砲奉行として活躍しており、越前でも同じエリアを府中三人衆で信長の代官のような役割で統治しております。
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そして勝家の目付役も請負ながら、北陸方面軍での戦いに参加していくのです。
元朝倉家臣団のドタバタから発生した【越前一向一揆】は、すでに信長が出陣して平定しており、次は加賀へ。
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一進一退を繰り返しながら、徐々に、諸衆を攻略していきました。
しかし、そう簡単にことは進みません。越後から最強の敵が現れるのです。
そう、上杉謙信です。
軍神に襲われフルボッコにやられる
織田家の加賀侵攻に対し、当初、謙信は一向一揆を扇動するなどして対抗しておりました。
上杉家は北陸方面だけに注力すればよいのではなく、信濃の武田や上野の北条など、強敵と接するエリアが多かったからです。
が、その状況も武田信玄の死などにより変わりつつありました。
そして1577年、ついに柴田勝家率いる織田家の北陸方面軍とぶつかりました。
【手取川の戦い】です。
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詳細は上記の記事に譲りますが、簡単に言うと
「味方を助けるため七尾城に向かっていたら城が陥落しちまった。仕方ないから引き換えしたら、手取川を渡ったところで軍神に襲われて木っ端微塵にされたぜ」
というものです。
織田家としては消化不良の敗戦だったんですね。
もともとこの合戦は、援軍に来ていた豊臣秀吉がいきなり戦線離脱をするなど、最初から雲行きの怪しい展開でした。
いずれにせよ、この手取川の戦いは柴田勝家の合戦という印象もありますが、前田利家も参加しており、おそらくや軍神の恐怖と屈辱を味わったことでしょう。
※松任城のすぐ南にある手取川が主戦場となった手取川の戦い
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