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【芳春院まつ(前田利家の妻)】
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秀吉との面会
利家は、秀吉と戦うことなく戦場から離れました。
つまり柴田勝家を見限ったことになり、戦力のバランスが崩れた【勝家vs秀吉】の戦いは即座に秀吉方の勝利へと流れます。
早い話、前田利家の裏切りで勝家は負けたことになりますね。
負けた勝家は北ノ庄城へ帰り、その後を秀吉が追う途中、前田家の府中城に寄り、まつに対面したと言います。
「勝てたのは利家殿のお陰。これから柴田家の北ノ庄城を攻めるが、息子の利長はまつと一緒に城を守っているといい」
秀吉がそう言うと、まつは利長にこう伝えました。
「母のことはいいから、一緒に行きなさい」
今後、柴田勝家亡き後の織田政権が秀吉のものになるのは明らか。そこで夫の利家だけでなく、息子の利長にも秀吉派を徹底させ、前田家の立場を強固にするためアピールしたんですね。
ただし、別の指摘もあります。
「なぜ勝家に味方をしたのか!」と秀吉が利家に対して怒り、苦しい立場に追い込まれた夫を救うため、まつが秀吉に面会。彼女の釈明が通って、秀吉の怒りが解けたというものです。
いずれにせよ、賤ヶ岳の戦いでの戦後処理に彼女が何らかの関わりを持ったことは間違いなさそうです。
その後、秀吉は北ノ庄城を攻め、勝家とその妻・お市は自害。
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柴田家に人質として出されていた麻阿は、勝家の配慮で殺されることなく解放されました。
いやらしい言い方をしますと、その辺の勝家の性格も見抜いた上で、利家&まつ夫妻は秀吉に与することを決めたのかもしれませんね。
醍醐の花見に夫婦で出席 一番の想い出になったかも
その後、前田家は勝家派だった佐々成政と対立。
前田vs佐々の【末森城の戦い】が勃発したときに、援軍を出し渋る夫・利家に対し
「そんなにお金が惜しいですか!」
と金銀の入った、なめし革の袋を投げつけたという豪胆エピソードもあります。
が、この逸話は後世の作り話である可能性が高そうです。末森城の重要性を利家が理解してないはずもなく、すぐに救援へ向かい、無事に城は守られています。
そしてその後、紆余曲折を経て、佐々成政も豊臣秀吉の軍門に下り、いよいよ秀吉天下人の流れは確定します。
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豊臣政権が樹立した後、特に秀頼が生まれると、まつの存在感も増していきました。利家が秀頼の傅役になったことで、まつも乳母のような扱いになったのです。
傅役も乳母も権力者の子供を支え、教育する大切な役目ですから、秀吉にとってこの夫婦がいかに信頼厚い人物だったかがわかります。
秀吉自身による生前葬ともいえる醍醐の花見では、まつの席はねねや秀吉の側室たちと並んで用意されていました。
ここで「秀吉から盃を受ける順番をめぐって、松の丸殿(京極高次の妹)と淀殿がケンカした」というエピソードがあるのですが、それに対してまつは「歳の順でいえば、ねね様の次は私ですね」と茶目っ気たっぷりに仲裁してみせたとか。
この花見は、秀吉と秀頼の他には女性ばかりで、唯一同席を許されていたのは利家だったといいますから、妻の機転に鼻が高かったことでしょう。
前田夫妻と秀吉にとって一番の想い出になったかもしれません。
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秀吉が亡くなり、利家もその半年後に世を去ると、まつを含めた前田家の人々は窮地に立たされます。
利長は父に代わって五大老の一人になりましたが、家康や三成の仲裁はできません。
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その上、反三成派からは旗頭扱いにされるのですから、たまったものではありません。
利家はそれを見越して「ワシが死んだ後、三年は上方を離れてはならん」と言い遺していたのですが、利長は国元の金沢に帰ってしまったため、余計事態が悪化します。
この隙に、前田家を快く思わない者たちが家康へ「利長殿が帰国したのは、徳川に一矢報いる支度のためですよ」と吹き込んでしまったのです。
賤ヶ岳に続く大ピンチです。
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