織田家の重臣にして豊臣政権でも重きをなした前田利家。
その利家を支えた女性として有名なのが正室の芳春院・まつであり、元和3年(1617年)7月16日が命日となります。
豊臣秀吉の妻・ねねと並び、戦国武将の妻として屈指の知名度なのは、夫婦揃って大河ドラマの主役にもなったからでしょう。
タイトルもそのまんま『利家とまつ』でした。
本稿では、あらためて史実の彼女を追いかけてみましょう。
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まつと利家はイトコ同士だった
まつは天文十六年(1547年)7月、織田家臣・篠原主計(かずえ)という人の娘として生まれました。
母親が再婚したり、伯母に引き取られたり、幼い頃からなかなか苦労しています。
当時の織田家は、織田信秀から信長へ代替わりをする頃でしたし、まだ幼いまつも不穏な空気を感じ取っていたのではないでしょうか。
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しかし、伯母に引き取られたことで、まつは4歳のときに生涯の伴侶と出会うことになります。
伯母の息子が他ならぬ将来の夫・前田利家だったのです。
まつと利家はいとこ同士なんですね。歳は一回り違いますが。
当時の利家はいろんな意味でブイブイいわせていた頃ですから、もしかしたら第一印象は粗忽な面が目立ってあまり良くなかったかもしれません。
しかし、信長が家督争いや身内との戦いで勝利を収めていく中に、必ずその勇姿がありました。
若様を支える武士として、まつは利家を頼もしく思っていったことでしょう。
そんなこんなで出会いから8年ほど経ち、まつ(当時12歳)は利家(21歳)の正室となります。
翌年には長女・幸姫も生まれ、順風満帆かに見えました。
利家が信長お気に入りの茶坊主をブッコロス!
しかし、ここで思わぬトラブルが起きます。
利家が日頃から仲の悪かった茶坊主・拾阿弥(じゅうあみ)を殺してしまい、織田家を追い出されてしまったのです。
【笄斬り(こうがいぎり)】とか【笄事件】などと呼ばれ、大河ドラマでもクローズアップされておりましたね。
そもそも事件の発端は拾阿弥であり、詳しくは利家の記事にお譲りしますが、
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まつも乳飲み子を抱えて大変な苦労をしました。
利家もただ信長の怒りが解けるのを待っていたわけではありません。
早く許してもらおうと【桶狭間の戦い】へ勝手に参戦して首を挙げましたが、最初は帰参させてもらえません。
その翌年【森辺の戦い(森部の戦い)】の戦いで、敵の豪傑を討ち取ってようやく許してもらえています。
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夫婦揃って食べるものにも苦労したでしょうに、よく幸姫が生き残れたものです。
ちなみに、利家が織田家に帰参した翌年のお正月に、後の初代加賀藩主・前田利長が生まれています。愛の力って偉大ですね(ということにしておこう)。
その後も次々と子宝に恵まれ、最終的には二男九女の母となりました。
時代や立場からすると利家に子供が多いのはおかしくありませんが、一人の女性が十一人も出産したのは稀有な例です。
しかも、乳幼児の死亡率が高かったこの時代に、夭折した人が一人しかいません。どんだけ健康なんですかね。
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利家・まつ夫妻を子宝の神として祀ったらご利益がありそうです。
勝家と秀吉 賤ヶ岳で間に立たされて
政治・軍事的には、趨勢の移り変わりによって、利家も苦しい立場に追い込まれることはありました。
特に大きかったのは、信長亡き後、利家が柴田勝家についていた頃です。
勝家は豊臣秀吉と対立していましたから、必然的に利家と秀吉も【賤ヶ岳の戦い】では敵対することとなりました。
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ですが、利家とまつは、自分たちの四女・豪姫(後に宇喜多秀家の妻)を秀吉の養女にしていました。それ以前からも浅からぬ付き合いがあり、夫婦揃って親友同士という間柄だったのです。
一方、勝家に対しては三女・麻阿を人質に出しておりました。
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それだけに、利家は非常に悩んだことでしょう。
そこで出された結論は……。
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