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【芳春院まつ(前田利家の妻)】
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自ら人質として江戸へ出向く、加賀百万石サバイバル
もちろん家康も真に受けたわけではないでしょうが、これを口実に前田家をつついてみることにしました。
家康が「一戦やる気なら相手になるよ?^^」(超訳)という雰囲気を出してきたことに対し、前田家の人々は真っ二つに割れてしまいます。
ここでまつは、文字通り捨て身の手段に出ました。
自ら人質として江戸に降り、家を守ろうとしたのです。次男の利政が西軍についてしまったため、それでもビミョーな立場になってしまいましたが……カーチャンをもっと大事にしてやれよ(´・ω・`)
それでもまつは息子を見捨てず、利政を許してくれるよう幕府に頼み込んだりしています。
結局それも反故にされ、ショックで寝込んでしまうのですが……。
こういうときは国元に送り返されるのがセオリーですが、前述の経緯のためか、金沢には戻らせてもらえませんでした。保養先には伊勢や京が指定されています。
この時点ではまだ秀吉の妻・ねねが存命中ですから、多少手紙のやり取りくらいはあったかもしれません。
秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)は女癖の悪い夫をどう操作していた?
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まつが金沢に戻れたのは、息子の利長が亡くなった後、大坂冬の陣の年(慶長十九年・1614年)でした。
こんな理由では、決して嬉しくはなかったでしょうね……。
織田軍団のオールスタが眠る京都大徳寺
それから三年後、まつも71年の生涯を閉じることになりました。
遺骨は、金沢と京都に分骨されています。
戦国時代の人物で複数お墓がある例は珍しくありませんが、まつのように天寿を全うした女性で、いくつも墓所があるというのはなかなかレアですね。
例によって私見ながら、京都のお墓が大徳寺に作られていることが大きなカギかと思われます。
戦国ファンの方なら、そろそろピンときたでしょうか。
何を隠そう、大徳寺は信長をはじめ、利家とまつが若き日々をともに過ごした人々のお墓が多くあるお寺なのです。
信長は総見院、豊臣秀長が大光院、黒田官兵衛が龍光院、世代が離れて細川忠興・細川ガラシャ夫妻が高桐院と、全盛期の織田軍団がそのまま収まったという感すらあります。
他の人のお墓もありますし、織田家全員のお墓がここにあるというわけでもないのですが、「墓場で運動会」ならぬ、墓場で軍議でもやっていそうです。
上記の通り、利家亡き後の(も?)まつには苦しいことがたくさんありましたが、これなら寂しくないかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
火坂雅志『戦国を生きた姫君たち (角川文庫)』(→amazon)
芳春院/Wikipedia