最上義光

最上義光像

最上家

最上義光(政宗の伯父)は東北随一の名将!誤解されがちな鮭様の実力

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「日本海で採れる鮭が食べたかったから」ではなく……

村山地方を支配した最上義光が次に目を付けたのは、西の庄内地方でした。

同地方を望んだのは「日本海で採れる鮭が食べたかったから」なんて“鮭好きの伝承”もありますが、それはさておき海をおさえれば京都まで水運ルートを確保できます。

そして天正11年(1583年)、庄内を支配していた大宝寺義氏が家臣の謀叛によって横死を遂げた後、義光はついに念願の庄内を手に入れました。

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ところが義光が大崎合戦とその後の処理で東に目を奪われていた天正16年(1588年)、最上勢は十五里ヶ原の戦いで上杉景勝の家臣である本庄繁長に大敗し、庄内を失ってしまったのです。

義光の領土拡大は、ここで一旦停止することになります。

同年閏5月、義光は上方から遣わされた金山宗洗を山形に迎えました。

このとき義光は、

「金山宗洗来訪の目的は、出羽の者たちが山形(=最上義光)の下知に従っているか監視に来たのである」

と喧伝しました。

豊臣秀吉は義光を通して出羽の戦乱をおさめようとし、義光は秀吉の威によって支配力を強めようとしたのです。

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義光は秀吉の【惣無事=停戦】の意向をくみ取り、これからは戦っても無意味であり、かつ秀吉は臣従を求めているのだと理解しました。

合戦をせずに勢力が拡大できるというのは、義光にとって歓迎すべき方針です。義光はしばらくの間、豊臣政権下での優等生として振る舞うことになります。

つまりは舵取りを大きく方針転換したのです。

「これからはもはや武力でどうこうする時代ではない。求められているのは外交力、交渉力だ! いち早く上方の支配者に認められた者こそが出羽の支配者となる」

織田信長の後継者である豊臣秀吉の権威を後ろ盾にすれば、失地回復も夢ではない――。

実はそう考えたのは義光一人だけではなく、奥羽では津軽為信や戸沢盛安も同じでした。彼らはフットワークも軽く、上方への交渉ルートを探ります。

そして失った庄内も惣無事違反であると訴えれば、取り戻せるのではないか? と義光は考えます。

しかし、すぐさま壁にぶつかりました。

庄内をめぐり義光と対立していた上杉景勝は、既に豊臣家の重臣である石田三成を通して強いパイプを持っていたのです。

三成を交渉窓口として使えない義光が目を付けたのは、徳川家康でした。

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家康とは歳も近く性格的にもウマが合った

最上義光は、家康が好きな鷹や名馬を贈り、接近を試みました。

東国武士の支配者として豊臣政権の重鎮となりつつあった家康にとっても、義光は歓迎すべき相手であったことでしょう。

義光は家康を味方につけて庄内奪還を画策しますが、なかなか思うようになりません。

しかしこの時の、家康の誠意ある対応に義光は好感を抱きます。義光と家康は歳も3歳差と近く、性格的にも相性がよかったようで、その信頼は死ぬまで続くことになります。

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義光が豊臣政権下の優等生ならば、さしずめ政宗は問題児です。

政宗は惣無事を無視、天正17年(1589年)には【摺上原の戦い】で大勝利をおさめ、会津蘆名氏を滅亡させました。義光は政宗を警戒し、監視しながら、秀吉の次の一手を待ち続けます。

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そして天正18年(1590年)、秀吉が動きます。

小田原征伐】に乗り出し、その際、奥羽の大名にも参陣するよう命を下したのでした。

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義光はもちろん参陣の予定でしたが、問題は政宗です。

この参陣の前夜、お東の方による政宗毒殺未遂事件、それにともなう伊達小次郎斬殺事件が発生した、とされています。

事件の真相は不明で、本当に事件があったのか、小次郎が殺されたのかも含めて、諸説あります。

フィクションではこの事件の黒幕が義光とされることがあります。

しかし、彼にはそんなことをしている余裕も動機もありませんでした。

義光自身が参陣に向けて準備をしていたわけですし、そもそもそんな事件を起こして発覚したら、豊臣政権からどんな目に遭うかわかったものではありません。むしろ義光は、政宗にスムーズに参陣して欲しくてたまりませんでした。

大崎合戦で義光が手を引いた結果、大崎家は伊達家の支配下に入っていました。伊達家に何かあれば、正室の実家である大崎家にも悪影響が及びかねません。

ともかく何事もなく参陣するよう、義光は気を揉んでいたのです。

しかも折悪しく父・栄林が危篤となりました。義光は父の葬儀のために遅れると、事前連絡をして許可を取り付けます。

父の葬儀を終えると、義光は政宗よりも遅れて小田原に参陣します。

このとき義光は、小田原手前の酒匂川で徳川家康によって出迎えられ、秀吉への取りなしを受けます。

徳川勢が出迎えることは予定通りでしたが、家康本人まで出迎えたのは義光にとって予想外に嬉しいコトでした。こうしたことからも家康への傾倒が利害を超えたものになっていくのですね。

義光はいち早く豊臣政権に正室を人質として出し、「他の大名も出羽守(義光)を見習うように」と言われるほど、優等生らしく振る舞い続けました。

政宗が陸奥の代表、義光が出羽の代表として、甥と伯父は中央政権から認められたのです。

上洛して京屋敷で暮らすようになった義光は、文人としても活躍します。

義光が最も得意としたのは、当時茶の湯と並ぶコミュニケーションツールでもあった連歌でした。

持ち前の文才と『源氏物語』、『伊勢物語』に通暁する才知を生かした義光は、名高い連歌師の里村紹巴からも高い評価を受けます。

戦国武将の連歌発句数ではレジェンド細川藤孝細川幽斎)に次ぐ第2位。

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中でも、次の一句は絶賛されました。

「梅咲きて 匂ひ外なる 四方もなし」

【意訳】春が訪れて梅が咲き誇り、香りがあたり一面に満ちあふれています

大名としても、文人としても、成功をおさめたかに見えた義光。

しかしそんな義光を待ち受けていたのは、豊臣政権による惨い仕打ちの数々でした。

 

義光がアンチ豊臣の急先鋒になったワケ

豊臣政権下でやっと平穏な日々を送ることができると思っていたのに、最上義光ら奥羽の人々が感じたのは深い失望でした。

このころ奥羽では、こんな言葉がささやかれます。

「京儀を嫌い申す(京都のやり方=豊臣政権の統治が嫌いだ)」

なぜ彼らはこんな風に思ったのか。

改易された奥羽の大名家臣牢人らの不満がくすぶっていたこと。

奥羽の大名にとってかわった新領主の言動が傲慢だったこと。

これら複合的な要因があった中で、最も深刻だったのが“増税”です。

寒冷な東北地方は他の地域と比べて農業生産力は落ちますが、豊臣政権はそのことを考慮に入れず、全国一律の税率を課したのです。

結果として大幅な増税となり、領民は追い詰められました。

義光がかつて統治した庄内地方では、庄内・藤島一揆が発生。直江兼続らによって鎮圧され、多くの死傷者が出ました。

政宗が糸を引いたとされる葛西・大崎一揆も、義光にとって無関係ではありません。

というのも、義光にとって義兄にあたる大崎義隆は、伊達家支配下の大名として上洛しなかったため、改易されていました。義光は彼の大名復帰運動を行っていたのですが、この一揆によって白紙に戻ってしまいます。

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天正20年(1592年)から始まった【唐入り(文禄・慶長の役)】も義光にとってはストレスのもとでした。

義光はその歳の秋には終わるだろうと楽観的に考えていたのですが、実際にはそれよりはるかに長く続きました。

上杉景勝や政宗とちがって義光は名護屋滞陣だけであり、渡海はしていません。それでも義光はホームシックにかかり、すっかり厭世的になりました。

「命があるうちに今一度、最上の土を踏みたい。水を一杯飲みたい」

「剃髪して山にでも逃げ込んでしまいたい」

「自分たちは渡海がないようで安心している」

「こんなことが終わったら鷹狩りしたいね、と皆で話していた」

義光は、こんなヤル気のまったく感じられない言葉を残しています。

庄内裁定で上杉の言い分が通ったこと、奥羽仕置き全般の過酷さ、そしてわけのわからない「唐入り」。

豊臣政権にうんざりしていた義光を、徹底的にアンチ豊臣にしてしまう悲劇が文禄4年(1595年)に発生します。

豊臣秀次の死に巻き込まれ、その側室であった義光の愛娘である駒姫が処刑されたのです。

さらにその14日後には、駒姫の母にあたる義光の正室まで亡くなります。

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この事件で妻子を失い、身に覚えのない謀叛の嫌疑までかけられ、自身の命も危険にさらされた義光は、露骨にアンチ豊臣としか思えない行動を取るようになります。

心のよりどころは徳川家康でした。

文禄5年(1596)の慶長伏見大地震では、他の大名がこぞって秀吉の元に向かう中、義光は真っ先に家康の元へと駆けつけています。

義光は大名でありながら家康個人ボディガードのようなことまで進んで行っており、完全にアンチ豊臣の徳川派大名筆頭となったのでした。

もっともこの時点で、義光が「次の天下人が家康だろう」と考えていたかどうかは不明です。

前述の通り心情的に家康が好きな義光ですから、

「このまま豊臣が滅びて大好きな家康様が天下を取ればいいのに!」

という願望を抱いていたとしても、何ら不思議はありませんが。

 

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慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去。

その後、後継者争いから頭ひとつ抜きんでた徳川家康が、着々と天下取りに向けて進んでゆきます。

諸大名が豊臣と徳川の間で揺れ動く中、最上義光だけは終始一貫して徳川でした。

この頃、多くの外様大名がどちらにつくか旗幟鮮明にしていたワケではありません。戦乱に陥った事態が長引いて、豊臣政権以前に戻った方がいいと考えていたと思われる者もいます。

そして慶長5年(1600年)、家康は上杉家重臣・直江兼続の書状【直江状】をキッカケとして、会津攻めを決意しました。

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この会津攻めで、義光は「最上口」(山形・置賜方面)から攻め入る南部、秋田ら大名を率いるよう、家康から命じられます。実際、多くの大名が山形城に集い、攻撃の準備を開始しました。

ところが石田三成挙兵を知った家康は会津攻めを中止し、反転し引き返してしまいます。

上杉景勝が反転する家康の背後を突くにせよ、その前に伊達・最上を攻略せねばできません。

最上と上杉の攻守は、逆転してしまったのです。

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このとき、最上家の石高は24万石。

対して上杉家は120万石。

最上に伊達の58万石を足してようやく「なんとかなるかも……」という戦力差です。

ましてや上杉相手に「勝てる!」なんて考える方がどうかしている、そんな絶望的な状況でした。

義光は上杉側に和睦交渉を持ちかけると同時に、防衛作戦を展開します。

選択した作戦は「明け逃げ」。防衛拠点である長谷堂・上山等に戦力を集中させ、あとは城を捨てるという戦法です。

9月8日から9日に分けて、2万を率いる直江兼続が最上領に進軍し、兼続は明け逃げされた城をあっという間に征圧しました。

畑谷城では撫で切りを行い、十四日には志村光安と1500名の兵が守る長谷堂城まで迫ります。この翌日には遙か西方の関ヶ原にて、家康が大勝利をおさめているのですが、それが出羽に届くまでには時間がかかります。

上方から届くはずの結果を待ちながら、義光以下の最上勢は、絶望的な防衛戦を戦い抜くことになります。

義光はさらに嫡男・義康を伊達政宗の元に派遣し、援軍を要請します。

16日、この要請を受けた政宗は、留守政景を山形へ派遣することを決定し、21日には山形近辺に着陣。実はこの政景、むやみに攻撃に参加しないように政宗から釘をさされていました。

援軍に来たはよいものの、どこか動きの鈍い政景を、政宗の母である保春院(お東の方・義姫の出家後の名前)が急かします。彼女は小田原参陣の4年後、家臣と揉めて岩出山城を飛び出し、実家に戻っていたのでした。

保春院の度重なる懇願に根負けした政景は、重い腰を上げます。

長谷堂城の守りは堅く、また援軍として駆けつけた鮭延秀綱ら3千の援軍も善戦しました。

24日には上杉勢が長谷堂城に総攻撃を仕掛けますが、この時は義光自身や政景も加わって乱戦に。戦いの最中、義光は旗指物を奪われそうになりますが、秀綱の奮戦で守り抜くことに成功します。

29日には上杉勢の大将クラスである上泉泰綱が討死。さらに、留守で手薄になった米沢を伊達政宗が狙っているとの噂が流れ始めます。

「長谷堂攻めに時間がかかりすぎだ……」

焦り始めたのは上杉方の兼続。いよいよ戦場が煮詰まったところで飛び込んできたのが、30日、関ヶ原の報でした。

東軍勝利!

翌10月1日、兼続は撤退を開始し、義光や政景らは猛追を始めます。

義光は自ら前線に立ち「大将が撤退してどうやって敵を防ぐのか!」という、一見格好良さそうでいて総大将としてはどうなのか?とツッコミたくなる言葉を残しつつ、奮戦に次ぐ奮戦。

テンション上がりすぎて、織田信長から拝領した「三十八間総覆輪筋兜」に銃弾を受けたほどです。

最上義光歴史館所蔵の三十八間総覆輪筋兜(公式サイト

政宗はこの追撃戦について「最上衆が弱いせいで敵を逃した。最上衆が弱いせいで討ち果たせなくて無念だ」となかなか失礼な感想を書き残しています。

が、それでも死傷者の数は上杉勢の方が多かったのは確かです。

このときは領民たちも奮起し、多くの敵を討ち取りました。兼続本人は討ち漏らしましたが、領内に取り残された上杉勢を降伏させることが出来ました。

最上勢はそのまま庄内へと進軍を続け、降雪のため一旦は戦闘停止するものの、翌年3月には再度攻撃を再開。家康から停戦命令が出されるまで進撃を続けます。

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