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【毛利元就】
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大内と尼子の「国境線」ということは
「西国の桶狭間」を制した元就。
主君を大内氏から、日本海側の出雲の大名・尼子氏に鞍替えし、地道に勢力を拡大していく。
毛利氏の本拠は瀬戸内海と日本海のちょうど間にある山間部であり、大内氏と尼子氏との「国境線」としてキャスティングボードを握る立場でもあった。
まずは鏡山城(東広島市、西条盆地)攻略戦で大内方の副将を寝返らせ、尼子軍を手引きさせると、一番の戦功を獲得。
しかし肝心の主君・尼子経久(あまこつねひさ)が策略家というかケチというか、寝返った副将を処刑した上、元就には恩賞も与えず、不信感を募らせることに……。
経久もまた同様に、元就の知略を警戒するようになっていた。
鏡山城の戦い後、甥で毛利当主の幸松丸が突如9歳で亡くなった。
続けざまに急逝する毛利の人間たち。9歳の子が3代続けて酒が原因とは思えないが、それが病気であったのか、あるいは何者かの陰謀めいた手口だったのか、今となっては定かではない。
いずれにせよ重臣たちの推挙で27歳の元就が毛利本家の家督を継ぐことになる。
その際、彼の才覚を恐れた尼子経久が、元就の異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)の擁立を画策するも、元就はすぐさま元綱と支持派を粛正し、尼子からの介入を退ける。
こうして、元就は尼子から離れ、再び大内氏の配下となるのであった。
正妻・妙玖とは仲睦まじく5人の子供が生まれる
元就の結婚の時期は定かでない。
1513年頃と、1517年頃の2説ある。
いずれにせよ初陣から家督相続の間に、以前から関係の深い吉川国経の娘(本名不明/法名・妙玖)を正室に迎え、多くの子に恵まれた。
【妙玖との間に生まれた子供たち】
・生年不明 長女
・大永3年(1523年)嫡男 毛利隆元
・大永5年(1525年)次女 五龍局
・享禄3年(1530年)次男 吉川元春
・天文2年(1533年)三男 小早川隆景
夫婦間は仲むつまじく、1545年(天文14年)秋に妙玖が死去するまで元就は側室を置いていない。
息子たちは「三本の矢」として名高い、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3名だ。
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こうして私生活を充実させる一方、尼子への不信から再び大内氏の傘下となっていた元就は、安芸国内での勢力拡大に奔走した。
まずは享禄2年(1529年)、毛利家の家督相続において相合元綱を擁立しようと画策した高橋氏を討伐。
この家はもともと甥・幸松丸の母方実家であったが、実力で奪い取り、安芸から石見にかけての広大な土地を手中に収めた。
ただし、このとき人質として高橋氏に送っていた元就の長女が処刑されたとも伝わる。
天文4年(1535年)には備後の多賀山氏の蔀山城(しとみやまじょう・広島県庄原市)を攻め、これを降伏させるなど、戦による勢力拡大の一方、婚姻関係でも周囲との結びつきを強めていったのが、知謀で知られる元就のヤリ方なのであろう。
例えば、以前から抗争を繰り返していた同じ地区(安芸高田市)の宍戸氏に対しては、宍戸隆家に次女(五龍局)を嫁がせて強固な友好関係を構築(後に、吉川元春の嫡男・吉川元長正室や、毛利輝元正室も宍戸家から嫁いでいる)。
そのほか天野氏や熊谷氏といった、毛利や吉川、宍戸らと同様の国人領主とも良好な関係を作り、安芸国人領主たちの盟主としての地位を確立していった。
少し遡るが天文2年(1533年)には、主君筋の大内義隆の推挙で官位(従五位下)を授かって同家との関係も深めており、天文6年(1537年)には、長男の隆元を人質として大内氏へ差し出している。
むろん策ばかりに溺れるワケではない。
勢力が拡大したとはいえ周囲の大名に比べて貧弱な毛利勢。これを討つべく天文9年(1540年)にやってきたのが尼子詮久(あきひさ・後の晴久)率いる3万の尼子軍であった。
中国地方の歴史に知られる【吉田郡山城の戦い】である。
このときわずか3000の兵と共に郡山城に籠城した元就は、ともすれば陥落の危険性に陥っていた。
しかし、宍戸氏らの協力や、遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この戦いに勝利。
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その勢いで佐東銀山城を落城させ安芸守護の武田氏を滅亡へと追い込み、安芸国の中心的存在に一気に浮上する。
水陸両用の「毛利両川体制」を確立
着々と勢力を拡大しながら基盤を固めていく毛利。
その側には、いつも吉川・小早川の通称「両川」がいることは、戦国時代ではよく知られた話だ。
むろん両家は最初から毛利の傘下にあったワケではなく、次男の元春、三男の隆景が婿養子入りすることによって支配力を及ぼしていったのであり、これも元就の知謀として知られている。
ざっと流れを追ってみよう。
天文12~13年(1542年から1543年)にかけ、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いが始まった。
撃退した尼子に対して今度は大内側が攻勢に出て、尼子氏の出雲の富田城(とだじょう、島根県安来市)へと攻め込んだのだ。
このとき元就は、なんと同盟国であるはずの吉川氏の吉川興経らの裏切りなどに遭って大敗、絶体絶命の危機に部下が身代わりとなり、命からがら安芸国へ帰国している。
そして翌天文13年(1544年)、跡取りが不在となった竹原小早川家から養子の要望を受けて、三男の徳寿丸(後の小早川隆景)を差し出した。
程なくして元就自身は隠居を表明して、隆元に家督を譲っている。
が、これはあくまで表面上のこと。実権はほぼ元就が握っていた。
1547年(天文16年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ次男の元春を養子に出した。
なぜ養子に差し出したのか。
いったい吉川家に何が起きていたのだろう?
実はこのとき吉川家当主の興経は、先の第1次月山富田城の戦いで元就を裏切り、更には新参の家臣を重用したことから一族内で諍いを生じさせていた。
そこで反興経派が吉川家の血を引く「元春を養子にしたい」と申し出たのである。
最初から元就が画策していたのか、それとも偶然か。
いずれにせよ、このチャンスを見逃す手はなく、当主の吉川興経が家臣団によって強制的に隠居させられると、その息子と共に暗殺によって命を奪い、吉川元春の当主基盤を固めた。
吉川家は完全に毛利のものとなり、次なるターゲットは、小早川家である。
小早川家は、安芸東部(広島県竹原市や三原市など)の名門だったが、早くから竹原小早川と沼田小早川にわかれていた。
すでに、竹原小早川氏には息子を送り込んでいる。
と、沼田小早川氏は、当主が第一次月山富田城の戦いで戦死し、ときの当主・小早川繁平は幼少かつ盲目(追い落とすための理由づけともされる)であったため、「尼子氏の侵攻には対抗できない」と主君筋の大内義隆が判断。
「おまえは尼子と内通しているであろう」と繁平に対して内通嫌疑をかけて高山城から追放すると、竹原小早川当主であった三男・隆景を繁平の妹と結婚させ、両小早川家を合体させ、当主に据えたのだ。
これにより手に入れた元就の果実は、領土だけではない。
小早川の安芸東部は、村上水軍で有名な大三島などの瀬戸内海の島々が浮かぶ海もあり、山の中の毛利家にはない水軍を保持していた。
要は、水陸両用の「毛利両川体制」を確立させたのであった。
そして天文20年(1551年)、中国地方に激震が走る――。
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